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江戸城(乙未の会) 2016.9.25 |
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東京駅丸の内北口集合。この辺りは松平丹波守はじめ大名屋敷のあったところ。ガイドは乙未の会を率いる轟さん |
日本工業会館のビルの区画にあったのは、評定所、伝奏屋敷。みんな手元の地図とにらめっこ。 |
皆一級取得者なので「伝奏屋敷とは何か?」なんて説明は不要。入口の向きとか評定所に詰めていた奉行の話題を。 |
そして大手門から登城しました。枡形や高麗門も、みんな知ってる。なぜ右回りの枡形が多いのかわかる? |
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門を入ったところで「どこかでみた顔ばかりだなあ」の声。!なんと高尾善希先生に遭遇。「僕はお金稼ぎのガイドに来たの」と彼独特の言い回しで笑いを誘う。 |
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左は轟さんが持っていた「江戸城の今と昔」 |
皆売店で争って購入 |
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江戸時代に一度だけあった、江戸城御金蔵破り。歌舞伎に詳しい清野さんが、これを題材にした歌舞伎を紹介する資料を下さいました。 |
竹橋横のお濠、石垣を覗き込むと「南無阿弥陀仏」と書かれた石が! 1人で歩いた時とはひと味違う 江戸城散歩でした。 |
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鶴が岡城址と致道館(庄内藩藩校):山形県鶴岡市 2012.4.29 |
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鶴岡城跡は今は鶴岡公園になっています。桜と美しいお堀のある、市民の憩いの場に |
慶長年間、庄内は酒井忠勝の支配となり、鶴ガ岡城と城下町が整備されました。公園は本丸と二の丸の跡。あちらこちらに門や櫓の跡の石柱があります。 |
桜はみな終わっていましたが
しだれ桜が一本満開でした |
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城主のお成りの時に使われた表御門。今は致道館見学の人が入ります |
この奥に聖廟があります。湯島の孔子廟とよく似ています |
入学式を行ったという講堂。藩政の会議もここで行われました。致道館は徂徠学を教学としています。 |
左が講堂。右の建物は藩主がお成りの時に使う「お入りの間」4部屋があります |
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会津若松城:福島県会津若松市 2013.7.15 |
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2013大河ドラマ「八重の桜」で人気の会津若松に行きました。若松城跡は美しい公園になっています。石垣は蒲生氏郷の築いたものが残っています。 |
若松城は別名「鶴ヶ城」。歴代藩主は葦名氏、伊達氏等ですが、蒲生氏郷や家光の弟保科正之、幕末の松平容保がよく知られています。 |
太鼓門は本丸に通じる大手門。ここの櫓に大太鼓があり、行事や非常時の合図に使われていました。 |
武者走りとは城内から城郭の土塁や石垣に登るための坂や石段。城郭外にあるものは犬走りと呼ぶそうです。 |
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鶴ヶ城公園にある茶室「麟閣」は蒲生氏郷が千利休の子少庵を匿っていた時に作られたと伝えられます。中でお菓子と抹茶をいただくことができます。 |
これは、会津戦争の責任を取って切腹した、家老萱野権兵衛の碑。他2人の家老は既に戦死、西郷頼母は城を離れていました。 |
鶴ヶ城近くにある藩校日新館の天文台跡。藩士の子弟が学んだ日新館にはこのほか水練場、馬場などもありました。 |
この近くには山本八重の実家もありました。↑説明板が立っていますが、その後の詳しい調査で実際には少し違う場所であることが分かったそうです。 |
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会津藩家老西郷頼母の家の女性たち21人は「女子は籠城の邪魔になるから」と城に入らず自刃しました。左の写真は、その時西郷頼母の妻八重子夫人の残した辞世「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」が彫られている「なよ竹の碑」中央は西郷夫妻のお墓。右はその時自刃した21人を弔う墓石です。保科の分家、西郷家の菩提寺である善龍寺にあります。 |
「会津武家屋敷」は数棟の歴史的建造物を復元して作られた建物園です。西郷頼母の家老屋敷には「自刃の間」が復元されています。 |
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西郷頼母の屋敷は建坪280坪、敷地面積は2400坪という広大なもの。家老職の為の表向と家族や使用人の為の奥向、合わせて38部屋もあります。 |
朱に塗られた九曜の紋のある鬼瓦で、西郷家の格式の高さがわかります。 |
表御殿の玄関。お成りの間、使者の間、台所、奥御殿の夫妻の間や子供部屋、女中衆の部屋などに家財道具と人形を配して目的を示しています。 |
「会津武家屋敷」のある小高い丘から鶴ヶ城の美しい姿が見えます。 |
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ここは飯盛山。「あの階段を上らないと白虎隊の少年兵たちのお墓にお参りできない・・・ |
と、思いきや、階段横に登りの動く歩道が。立っているだけで山頂に行かれます。\250でした。 |
白虎隊は16~17歳の少年で編成されたいわば予備隊でした。年を偽り15歳で入隊した少年もいました。そのうち二番隊の20人が飯盛山で自刃。1人は奇跡的に生還、19人が亡くなりました。 |
少年たちが燃え盛る会津の街を見て自刃を決意した場所から、かすかにお城が見えます。矢印の先端のあたりです。 |
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白虎隊二番隊22人のうち、酒井峰治は山を下り城を目指しました。その時愛犬クマが山中で彼を出迎えたのだそうです。 |
戸ノ口堰は猪苗代湖から会津盆地に水を引くための用水堰です。白虎隊の少年たちは退却するとき、一時この弁天洞穴に潜んでいました。 |
これは珍しい建物。旧正宗寺円通三匝堂は「さざえ堂」と呼ばれます。昇降別々のらせん状斜路で階段は無く、一方通行で上下します。江戸時代には本所にもあり五百羅漢が安置されていましたが幕末に焼けてその後廃仏毀釈で中の仏像も失われました。今では世界でもこんな不思議な建物はここだけです。(階段だけならフランスにもあるそうです) |
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古河城 :茨城県古河市 2014.7.6 |
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古河城曲輪跡石碑 |
雪の結晶のコップ |
古河に行ってみたかったのは、「雪の殿様」土井利位の「雪華図説」を見てみたかったから。でも古河歴史博物館では企画展以外の期間には、雪の研究についての展示は少なかったです。 |
ここは天保~安政期の土井家家老鷹見泉石の住居跡。鷹見泉石記念館となっています。雪華の観察には彼の蘭学者としての知識は欠かせませんでした。兵法も学んでいた彼は、主君利位の大坂城代時代に大塩平八郎の乱を鎮圧しました。また、江川坦庵、高島秋帆、渡辺崋山、桂川甫周やオランダ商館長らとの広い交友関係を持ち、オランダや欧州の資料を数多く収集していたことも知られています。 |
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土井家の菩提寺正定寺。土井家は合計155年、古河藩主でした。もとの菩提寺は浅草誓願寺でしたが、関東大震災のとき墓を移転したそうです。 |
初代藩主土井利勝の銅像。初の大老となった人です。家光の時代には最高権力者とも言われました。 |
4代将軍家綱の生母お楽の方の供養塔。当時の古河城主永井家の江戸屋敷にいた頃春日局に見いだされ、大奥に上がったそうです。 |
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新発田城 :新潟県新発田市 2015.5.4 |
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新潟県新発田市に残る新発田城。別名を「あやめ城」というそうです。 |
天守替わりの三層櫓はT字型で3匹のシャチホコがいる珍しい造りです。 |
旧二の丸隅櫓は二の丸北部にあったものを鉄砲櫓跡に移築したもの |
この腰まわり部分のなまこ壁は独特。瓦を並べて漆喰で繋いであります |
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初代藩主溝口伯耆守秀勝。信長に見いだされて秀吉配下となるが、関ヶ原では東軍に属し、家康からこの地を拝領しました。 |
本丸辰巳櫓(↑)と三層櫓は精密な図面が残っていたので、平成16年木造で復元することができました。 |
雪深いと思われがちな越後の国ですが、この辺りはそれほど 豪雪地帯ではありません。夕方なので暗い写真ですが、新緑の美しい町です。 |
高田馬場の仇討で有名な中山安兵衛はもと溝口藩士。赤穂藩の堀部弥兵衛に気に入られて養子となり、吉良邸への討ち入りに参加しました。 |
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犬山城:愛知県犬山市 2012.2.11 |
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国宝犬山城。別名白帝城。名付けたのは荻生徂徠です。 |
望楼型天守を持つ3重4階地下2階の城。最近まで成瀬氏個人の持ち物でした。 |
天守に上がる階段は急です。
頭上注意。 |
ここは石落としの間。どの位の大きさの石を運び込んだのでしょう |
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天守欄干からの眺望は最高。北東方向に御嶽山も見えます |
亀の甲に桃を載せた、珍しい鬼瓦 |
築城当時の鬼瓦(!)。慶長年間に取り外されて保存 |
昔は天守と同じ位高かった大杉様。今は枯れてしまいましたが・・ |
有楽苑(うらくえん) |
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有楽苑は、織田有楽斎が京都建仁寺に隠遁した際の、正伝院書院や名茶席如庵を配した庭園 |
織田有楽斎は信長の実弟で、本能寺の変、小牧長久手の戦、関が原の戦等に参戦したが、晩年は茶人として過ごした。 |
↑は萱門(かやもん)。庭園内の茶室ではお抹茶をいただけます(\500)。お茶菓子は特製「有楽風」(左下) |
これが国宝如庵。日本三名茶室のひとつです。すぐ横にある有楽好み井筒には元和元年有楽の銘があります |
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石神井城 東京都練馬区 2014.2.23 |
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石神井城址は石神井公園になっています。城主は秩父平氏の流れをくむ豊島氏。文明9年、扇谷上杉の家臣太田道灌に攻められて落城しました。 |
当時の城主豊島泰経は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り、三宝池に沈んだという伝説があります。縁者が建てたという「殿塚」 |
豊島泰経の二女照姫は父の後を追い三宝池に入水したと伝えられます。照姫を弔う「姫塚」も作られています |
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彦根城 :滋賀県彦根市 2014.6.21 |
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国宝彦根城にずっと憧れていました。美しいお濠が迎えてくれます |
金亀山に建てられたので別名は「金亀(こんき)城と言います。 |
コの字型の天秤櫓。上は回廊。櫓門の左右の袖部分の向きが違います。 |
天守が完成したのは慶長12年ごろ。攻められたことがなく、昔の姿です |
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△から鉄砲の先を出して敵を撃ちます。矢狭間は□です。 |
武者溜(むしゃだまり)。今は観光客溜ですね。 |
天守から琵琶湖。朝のうちに来ればもっときれいな湖が見られます。 |
右の石段は「雁木」。大勢の城兵が一気に駆け上がって攻撃するため |
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これは4代藩主井伊直興が建てた下屋敷「槻(けやき)御殿」。直弼の建てた「地震の間」などもあります。 |
やはり井伊直興が整備したといわれる庭園「玄宮園」。江戸時代の大名庭園らしい、池と橋とあずまやのある、回遊式庭園です。 玄宮園から彦根城の天守が見えます。 |
博物館横で、ゆるキャラブームに火をつけた人気もの、ひこにゃんのショーがあります。 |
天寧寺 五百らかん |
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天寧寺は井伊直弼(幕末)の父、彦根13代藩主直中が建てたお寺で井伊家の菩提寺です |
広い本堂の周囲の壁にはぎっしりと仏像が並んでいました |
井伊直弼の供養塔。桜田門外で暗殺された時の持ち物などが納められているそうです |
高台にある天寧寺からは彦根城の天守を臨むことができます。 |
長浜 お城と琵琶湖と黒田観音寺:滋賀県長浜市 |
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谷崎潤一郎の「盲目物語」の冒頭「わたくし生国は近江の国長浜在でござりまして、誕生は天正21年みずのえねの年でござりますから、当年はいくつになりまするやら・・・。」と始まる美しい文章に憧れて長浜に来ました。左は琵琶湖のほとりにある豊公園からの長浜城天守(歴史博物館)、右は目の前の琵琶湖です。晴れていれば竹生島や対岸も見えるのですが。 |
黒田観音寺は長浜の北、木之本黒田地区「黒田官兵衛の里」にあります。ここの観音様にお会いしたくて北陸自動車道を北上しました。 |
伝千手観音となっていますが、お顔も十一面ではなく、腕も18対なので「准胝(じゅんてい)観音」という、密教の仏母らしいです。事前に申し込んでおけば参拝できます。 |
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忍城:埼玉県行田市 2013.12.1 |
10万石の忍藩は江戸時代は江戸近郊の重要な城で、幕政に大きな関わりを持ち、老中を多く出したことから、「老中の城」と呼ぶ人もいます。
「浮き城」と呼ばれたのは、1590年(天正18年)豊臣秀吉の関東平定北条攻めの時。忍城主成田氏長は小田原城に籠城。従兄弟成田長親を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもりました。忍城攻めを任された豊臣方の総大将石田三成は忍城の地形を利用して水攻めを試み、周囲28kmに及ぶ堤を築いて荒川の水を引き入れ、本丸を孤立させる作戦を立てました。しかし、城はなかなか落ちず、ついに北条氏が破れて小田原城が開城となるまで、豊臣方に屈することはありませんでした。この戦いを描いたのが「のぼうの城」。2011年に映画化され、野村萬斎がとても魅力的な成田長親を演じていました。面白い映画でした。 |
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映画「のぼうの城」の舞台となった忍城は埼玉県行田市にあります。これは復元された三層櫓。 |
本丸西側の土塁。南に二の丸、西には土蔵廓があり、橋で結ばれていました。 |
塀の前に並べられているのは「忍城櫓の石垣」明治時代廃城になるまで実際に使われていました。 |
かつての藩校「進修館」の表門と伝えられる門が移築されています。天保3年に作られたものだそうです。 |
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彼らは「忍城おもてなし甲冑隊」忍城跡、行田市郷土博物館や古代蓮の里などに「出陣」して、観光客の皆さんに演武を披露したり、歴史のガイドも務めます。成田長親、三木丹波守、柴崎和泉守、酒巻靭負ら、に成りきって案内中。 |
隊の花形は何と言っても美しい「甲斐姫」。後ろの陣幕の紋が成田家の家紋です。 |
忍城は周囲の湿地を利用した広い城郭を持っていました。ここは本丸跡から水城公園に行く途中の三の丸跡 |
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忍城が取り壊された後は忍沼という大きな沼が出来ました。その一部がここ水城公園として、市民の憩いの場になっています。そしてこの池はオナガガモの越冬池になっています。橋から餌を与える人たちも。 |
これがオナガガモの雄。他のカモに比べ首と尾羽が長く、すっきりしてかっこいいカモです。 |
行田市内のメインストリート両側にはこんな櫓が建っていて、鋳物の童子が入っています。 |
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勝連城(かつれんじょう):沖縄県うるま市 2012.6.28 |
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勝連城は、国王に最後まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城。東アジアを中心とする海外交易を盛んに行って勢力を拡大した阿麻和利は中部沖縄では英雄です。グスク跡は世界遺産に指定されています。高台に建てられた城は難攻不落だったと思います。景色抜群。登り道は整備されていないので歩きにくいけれどとてもいいところです。お勧めです。→2021にはすっかり整備され歩きやすいそうです |
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首里城:沖縄県那覇市 2012.6.29 |
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琉球王国の栄華を伝える首里城。守礼門には「守禮之邦」の額。琉球は礼を重んじる国なのです |
屋外のテントで琉球舞踊が上演されていました |
正殿と御庭(うなー)
ここで様々な儀式が行なわれました。 |
城郭に上って景色を一望すると美しい空。豊かな琉球を感じます。 |
広い首里城公園。
首里城は世界遺産に指定されています。 |
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小倉城(八坂神社・小倉城・小倉城庭園・松本清張記念館):福岡県北九州市2015.6.26 |
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八坂神社にわたる橋。お濠を隔てた向かい側に派手な色の商業ビル。最初は相当反対があったそうです。 |
八坂神社はもとは祇園社と呼ばれていました。ご祭神はスサノオノミコト。小倉城主細川忠興公鷹狩の折に小祠のご神体を覗こうとして 鷹に蹴られて目に傷を負い、非礼をわびて立派な社殿を建てたそうです。それで目も快癒したとのこと。 |
手水にはフクロウ(神使のアオバズクかな?)。
そして境内の末社猿田彦神社の狛犬は可愛いたれ耳 |
楼門の扁額には「豊前総鎮守」と書かれています。7月には400年の歴史を持つ祇園祭が行われます。 |
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あいにくの雨模様ですが、お濠と石垣と天守。とても立派なお城です。右下はマスコットキャラの「とらっちゃ」。なぜかというと・・・・→ |
これがあるからです
左が「迎え虎」右が「送り虎」。長州藩に攻められお城が焼失した慶応2年寅年に因んで昭和35~36年に描かれたもの |
城内は、大人から子供まで楽しみながら小倉の歴史がわかる様にいろいろなアイテムがあります。これは江戸時代の生活を再現したジオラマ |
お殿様が乗る駕籠(揺れます)にも乗れます。この他小倉の名物を説明する人形や映像、島原の乱の作戦会議などのアトラクションがあります。 |
天守閣に上がると小倉の町が一望できます。眼下には小倉城庭園、背後は紫川。その向こうは繁華街や小倉駅方面です。 |
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天守からしゃちほこの顔が見えました。 |
回遊式の小倉城庭園。この池はもとは汐入の池だったそうです。書院の広縁は「懸け造り」になっています。 |
書院の中も拝見できます。館員の女性が案内してくれました。欄間の格子をずらすと夏仕様になる優れもの構造 |
城郭内には小倉出身の巨匠松本清張の記念館があります。推理小説 好きの私、若い頃は読みふけったものです |
松本清張に関する様々な資料展示の他、彼の家の応接間や書物室、書斎も再現されていました。 |
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武蔵松山城 :埼玉県東松山市2016.7.31 |
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松山城は丘陵の上に建てられた平山城。お城の歴史ははっきりわかっていないようですが、城の存在が広く知られたのは上杉、北条、武田による城を巡る戦いがあってからだそうです。 |
ここが本丸跡。ここから北東に向かって二の丸、春日丸、三の丸跡が直線に並び、両側に他の郭跡や兵糧蔵、物見櫓跡などが残っています。 |
天正18年、豊臣氏に攻められて落城。その後歴代の城主上田氏滅亡の後は松平家広が城主となったが、松平氏は慶長6年浜松に転封され、松山城は廃城となりました。 |
本丸跡からは東松山の町が一望できます。城山の三方を市野川の流れが囲み、なかなか堅固な要塞となっています。この周囲には他にも多くの城跡があります。 |
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躑躅ヶ崎館 :山梨県甲府市2016.10.2 |
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武田神社のご祭神は武田信玄公。信玄公を敬愛する甲府市民の手で、大正8年に創建されました。 |
拝殿で参拝し、右手の宝物館へ。有名な風林火山、「孫子の旗」のホンモノ(左)が特別展示中でした。 |
この神社は武田氏の館跡に建てられたもので、多くの遺構が残っています。これは信玄公も使用したという井戸 |
別名躑躅ヶ﨑館。 土塁や柱の跡も残っています。この辺りにあった厩の掘立柱の礎板も出土しています。 |
甲府城 :山梨県甲府市2016.10.2 |
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甲府城(舞鶴城)跡は現在舞鶴城公園となっています。もとは20haの広大な城郭ですが今は6haほど。平成になってから櫓や門が復元されています。JR甲府駅はもと城郭内にあります。 |
城郭の石垣や天守台は昔のままです。天守台に上がると、甲府の街や周囲の山々、南アルプス、富士山が一望できます。リニアモーターカーのテストコースも見えました。 |
ボランティアさんに 天守台から見える建物の説明を受けました。上の写真の「稲荷櫓」は創建当時と同じ様に漆喰で再建したのに、知ら無い人はセメントだと思っていると悔しそう。 |
上の矢印のところ、よーく目を凝らすと武田神社の鳥居が見えました。村岡花子さんが教鞭をとった学校や、山梨大学、武田氏の菩提寺も教えてもらいました。 |
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高済寺と高坂館跡 :埼玉県東松山市 2017.6.25 |
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高済寺の境内にある古墳。これも伝承で前方後円墳と言われている |
これは加賀爪氏代々の墓で、県の指定史跡。この向うに館があったらしい |
この一帯に高坂城が築かれていたと思われます。「城山稲荷」 もあるので。 |
高坂館跡。立札等はありませんが高済寺裏の地形は土塁と濠の跡にみえる |
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杉山城 :埼玉県吉見町2017.8.27 |
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杉山城は戦国時代の山城。およそ10の郭があり、高度な築城技術は「築城の教科書」と評価されています。 |
大手(出郭)跡。虎口(郭の出入り口)には侵入方向の横からも矢を射かける「横矢掛」が設置されていました。 |
南三の郭周囲の切岸(きりぎし)。斜面を人工的に削り、内側に杭や逆木を打ったりして敵の侵入を防ぎました |
築城の記録は無く、H.14からの発掘調査により、15~16世紀前半、山内上杉氏の築城であることがわかりました。 |
出郭付近から東南方向。眼下には積善寺。その先市野川が天然の外濠のように城郭を囲んでいます。 |
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菅谷館跡と県立嵐山(らんざん)史跡の資料館 :埼玉県嵐山町2017.9.10 |
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菅谷館は鎌倉時代に畠山重忠が居住した館。但し現在の郭や土塁等の遺構は戦国時代に確立したものと思われます。 |
上空からの菅谷館跡。1205年重忠がこの館から出陣したと「吾妻鏡」に記録がある。また山内扇谷両上杉の合戦があったのもこの付近。 |
三ノ郭には県立嵐山史跡の資料館があります。現在の企画展は「比企のタイムカプセル」。発掘調査でわかる比企郡周辺の遺跡の展示です。 |
二ノ郭への口に建つ畠山重忠像。近くの寺院跡から重忠の曽祖父秩父重綱の経筒が出土。古くから畠山氏の拠点であったことがわかります。 |
本郭は空堀と高い土塁によって守られ、さらに凸型に突き出た出枡形の土塁を築くことにより、敵の侵入を横からも攻撃して防御します |
小倉(おぐら)城:埼玉県ときがわ町2017.9.10 |
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小槻川が大きく蛇行する内側の丘陵に建てられ、川が天然の要害となっている難攻の城です |
復元図。城主は、後北条氏の重臣遠山氏とする説と、松山城主上田氏とする説があります。築城は16c初頭 |
大福寺と言うお寺の横から、100mほどの高低差の山道を登ります。結構急峻な道で、20分ほどかかりました。 |
この年代の関東の山城としては珍しく、石垣が築かれています。現在も随所に野面積みの石積みが残っています |
本郭跡は木を伐り、平らにして手入れされています。土塁の上には「小倉城址」の石碑が建っていました。 |
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鉢形城 :埼玉県寄居町2018.11.4 |
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埼玉県寄居の鉢形城は日本百名城のひとつ。1476年長尾景春の乱の拠点となった城です。太田道灌がこの乱を制した後、山内扇谷両上杉の争いとなり、16世紀半ばには北条氏の支配下となります。 |
現在の城址のような整備を行ったのは北条氏那と思われます。三ノ曲輪の辺り(↑)は池が作られ、発掘された食器などから大名の接待などに使われたと考えられます。四阿が復元されています。 |
荒川と深沢川という天然の要害に囲まれた鉢形城。北関東や甲州信州攻略の拠点として重要な位置にあり、織田、北条、武田、上杉らの争いの場となりますが、天正18年秀吉軍に包囲され開城しました。 |
翌月小田原城も開城。氏那は出家して前田利家に預けられ金沢で死去しました。鉢形城は廃城となり、鉢形周辺は徳川の家臣日下部氏と成瀬氏の直轄地となりました。↑は城山稲荷。 |
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鉢形城は昭和7年に国指定史跡となり、平成に入ってから発掘調査や整備が行われ、平成16年から鉢形城址公園として公開されています。↑は復元された井戸 |
発掘調査の結果、石積土塁、6か所の馬出、池の遺構、掘立柱建物跡のほか、柵列、土坑、溝などが確認されました。検出された礎石と石階段から四脚門を復元(写真①) |
二の曲輪の発掘は平成9年に行われ、溝、土坑のほか、土中から鉄捎やフイゴの一部が出土したことから、鍛冶工房があったと推定されています。 |
外曲輪南西部の鉢形城歴史館。平成16年鉢形城址公園開設と共に建てられました。内部には櫓門が復元され、鉢形城の構造や歴史を解説するワープステーシ等がありまず。 |
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金山城 :群馬県太田市2018.2.11 |
金山城も日本百名城の一つ。築城は新田一族の岩松家純(1469)。16世紀に入り、由良氏の支配となり、上杉や武田に再三攻められたが難攻の城で落ちたことはありません。しかし後に台頭してきた小田原北条氏に降伏して1584年金山城を開城しました。北条氏が秀吉軍に屈した後は金山周辺は徳川家の支配となり、城は廃城、金山は徳川将軍家の御用林となりました。明治の初めに、もと本丸(実城:ミジョウ)の場所にに新田神社が建てられました。 |
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金山は標高239m。左の↓が駐車場。右上が本丸跡の新田神社。典型的な山城です |
城周囲には敵の侵入を防ぐ堀。↑は西櫓台下堀切。現在は通路になっています。 |
馬場下通路。手前の土橋を渡ってから、石積の奥は通路を曲げ、先を見せないような工夫をしています。 |
金山は山頂を中心に溶結凝灰岩を含む金山流紋岩で出来ており、ところどころ柱状節理が見られます。 |
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馬場下通路では木橋で進路を狭め、それを渡ってくる敵を監視し、その先の土塁石積から攻撃する等工夫があります |
城周囲の敵の動向を見張るための物見台。晴れた日には日光男体山や浅間山まで見渡すことができます。 |
上下二段の石垣で囲まれた正円形の月ノ池。城の中心部への入り口脇にあり、訪れる者に水の豊富さを見せます |
大手虎口は実城へ向かう通路を守る一大防御拠点。高く積まれた石垣は敵を威圧し、城の威厳を示します。 |
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関東の城には珍しく石垣で土塁を築いている金山城。雨害等で崩れることもあったらしく何度も改修した跡があります |
日ノ池も石垣で囲い、粘土質の底に水を貯めたもの。勝利の祝や雨乞いなどの儀式が行われていたと考えられます |
金山の実城域にある市指定天然記念物の大ケヤキ。樹齢800年と推定され、樹高17m,目通り6.79m,枝張40m |
天守曲輪(最高位の郭)にある、新田義貞をご祭神とする新田神社。「本丸跡」の石碑があります。 |
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八王子城 :東京都八王子市2018.4.30 |
今回は思い立って急に行ったため、時間も覚悟も不足。籠城のための詰めの城である本丸跡まで登りましたが、普段の居住区である、門や石垣が復元されている御主殿跡や御主殿の滝は見逃しました。 |
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先ずガイダンスセンターで勉強。八王子城は16C末に北条氏照が豊臣秀吉の攻撃に備えて築いた山城。 |
標高470mの本丸まで約40分と書いてあります。八王子神社と本丸をめざして 山道を登り始めます。 |
ここは金子三郎右衛門が整備した子丸という郭跡。そろそろ足に来るころですが先は長い |
右隅の人物を見ると急峻な山道を登ってきたのがわかります。この辺りは柵門跡。 |
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9合目を過ぎて暫くすると視界が開けます。関東平野を一望できます |
八王子神社。八王子とは牛頭天王の8人の王子のこと。 |
やっと頂上です。「本丸跡」の石碑のたつ郭はあまり広くありません。 |
御主殿跡に向かう途中の公園のジオラマ。水色が現在地、黄色が本丸跡です |
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足利氏館:鑁阿寺(ばんなじ):栃木県足利市2018.4.29 |
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鑁阿寺は元々は足利氏の邸。周囲は土塁と堀、四方に門のある典型的な鎌倉武士の館。本堂(↑)は国宝に指定されています。 |
真言宗大日派の総本山です。宝塔としては我が国最大(もっと大きいものは大塔)の多宝塔は国の重要文化財(↑)。 |
校倉造のこの建物は宝蔵として使用されていたもの。右奥は大鳥神社。広い敷地にはこの他、経堂や霊屋が建っています。 |
足利義兼の正室時子を祀る蛭子堂。時子は夫の留守に腹が膨れ、不貞を疑われて自刃したが妊娠では無かったと伝えられる |
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大阪城 :大阪市2018.5.11 |
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大手口右手の南外堀。屈曲した石垣は横からの攻撃が可能。六番櫓、五番櫓、四番櫓が見える。 |
大手口から大手門(右端)へ。大手門は城の正門。左が千貫櫓(国史跡)、中央に多門櫓が見える。 |
大手門は高麗門(↑)と櫓門から成る。高麗門は建築様式の名。江戸時代に盛んになった。 |
枡形左手の櫓門。門上に乗る渡櫓と鍵型に曲がった続櫓と土塀で枡形虎口を形成している。 |
枡形虎口の巨石。左から大手二番石23畳、大手見附石29畳、大手三番石22畳という大きさ。 |
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石段は雁木(攻撃時に兵が登る)。四角い穴は鉄砲狭間で、ここから、枡形に侵攻した敵を攻撃する |
石垣用の石を割る為には直列に穴をあけ、楔を入れて割る。その矢穴が残る石が置かれている。 |
本丸に向かう桜門。正面は天守閣。寛永3年創建の門は維新時焼失したが明治20年に再建された。 |
本来枡形を形成していた桜門内にある大阪城最大の巨石「蛸石」。36畳あり、重さは108㌧の花崗岩。 |
小天守台の金明水井戸。秀吉が毒抜きのため金塊を沈めたという伝説があるが、これは徳川のもの。 |
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天守は昭和6年に再建された。徳川期の位置や形を踏襲しているが、最上層は秀吉のイメージで黒壁に金の虎を描いたものに。 |
天守から北側の山里丸方面の眺望。下方に青屋門の枡形と極楽橋が見える。その先はクリスタルタワー、右端の屋根は大阪城ホール |
二の丸の豊国神社。秀吉、秀頼、秀長の三人を祀っている。 大阪ではやはり太閤さんが人気。この像は外国人観光客にも人気。 |
本丸の南西隅櫓台と空掘。大手から桜門への道を見通す防御に重要な場所。石垣の角は算木積みと呼ばれる積み方。 |
元和6年に創建された千貫櫓は国の重要文化財。大手口を守る重要な櫓である。工事責任者は茶人でもある小堀遠州。 |
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千貫櫓付近から西外堀。幅の広い堀は防御力が高い。石垣の勾配のラインが美しい。 |
坤(ひつじさる=南西)櫓跡。西の丸の南西にある。維新時には焼け残ったが第二次世界大戦で焼失 |
乾櫓も元和6年創建の重要文化財。西の丸の戌亥(西北)にある。L字型の総二階造りの櫓は珍しい |
硝煙蔵は火薬保管庫。花崗岩で作られている。重文現在、多門櫓、千貫櫓と共に土日に内部を公開中 |
西の丸庭園は公園として整備され、春や秋は遠足の幼稚園児や小学生が芝生を駆け回る |
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坂戸城 :新潟県南魚沼市2018.5.4 |
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坂戸城は、坂戸山(標高634m)頂上に実城、少し下に広めの郭、西麓に居住区がある |
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築城は長尾房長。房長の子政景は越後国主上杉謙信の姉を正室に迎え、手を結んだ。謙信没後に養子となった政景の子景勝が跡を継いで、坂戸城は越後の要衝となった。↑は西麓にある家臣屋敷跡。 |
↑S.54本格的中世山城であるとして国指定史跡となる。秀吉の命で景勝は会津に国替え、その後越後国主となった堀秀治の家臣堀直竒が城主となったが1610年信濃に転封となり、坂戸城は廃城となった |
直江兼続は坂戸城下の生まれであると言われており、上杉景勝が春日山城主時代には坂戸城を託された。↑は直江兼続伝世館。長尾家、上杉家、直江兼続、堀家などの所縁の品が展示されている |
兼続と景勝の強い結びつきはNHK大河ドラマで有名になった。隣接する銭淵公園には喜平治(景勝)と与六(兼続)の像が建つ。綺麗に整備された公園の背後は坂戸山が借景。 |
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お城や城跡を回っているうちにちょっと興味を持ったので江戸検のお仲間に教えていただいた「日本城郭検定」を受けてみようかと思い立ちました。試験場は王子の中央工学校というところ。 |
まだ初級です。受験番号は00379.。若い女性が多いのにびっくり。お城はブームなのかな?
同じ部屋に小学生の男子もいました。 |
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3級(初級)は合格率が高いです。
私は91点で全体の12位。トップ10には入れませんでしたけどまあまあです。 |
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春日山城:新潟県上越市2018.8.11 |
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上杉謙信の居城だった春日山城。本丸跡に行くにはまず130段の階段を上って春日山神社へ。ご祭神は謙信公です |
自然の地形を巧みに利用した堅固な城塞は難攻不落の天下の名城と言われました。曲輪、土塁、たて堀、虎口等の遺構が残ります。左写真は竪堀、右写真の平地は二の丸跡でその向こうには上越高田の街と日本海が見えます。 |
本丸跡は標高189m。天守跡はこの先に。本丸周囲にお花畑、諏訪堂跡、護摩堂跡、直江屋敷跡などがあります。 |
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本丸跡からの眺望は素晴らしい。今日は曇っていましたが、左の木の下辺りには日本海と高田港が見えました。 |
古絵図にもある大井戸。廃城後400年後の今も水を湛えている。数十年前の井戸浚えで杓や滑車が見つかりました |
再建された毘沙門堂。謙信公が信仰した毘沙門天は嘉永2年に火災にあったが、昭和3年高村光雲が修理しました |
斜面を水平に切り出した帯郭。重要な郭の防御の為のもので、春日城では本丸と直江屋敷の周囲に作られています。 |
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春日山城址ものがたり館。ここで日本百名城のスタンプを貰えます。春日城と上杉家関係の展示があり入場無料 |
左は織田信長から贈られたと伝えられるビロードのマントの写真。右は謙信公が作付を奨励した「青苧」(からむし。織物の原料となる植物 ) |
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ものがたり館のある春日城址公園には土止めの板柵(上左)や発掘された排水路の溝跡(上右)、春日城址の全体模型(左)があります |
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こちらは上越市埋蔵文化センター。「謙信公と春日山城展」の展示中。8月25日には「謙信公祭」が開催されます。 |
展示室前には謙信公(左)と上杉景勝公(右)に扮した「上杉おもてなし武将隊」の面々が案内中。 |
川中島の合戦で謙信が信玄に三太刀切りつけた。信玄の軍配には七太刀の傷跡が残っていた(???)という軍配 |
イケメンの武将さまと記念写真を撮ることができます。「いざ!出陣!」の掛け声に私も「エイエイオー!」で。 |
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2019.1.6
-埼玉県立史跡の博物館企画展- |
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埼玉県立史跡の博物館は埼玉県域の中世に関する調査研究と展示を行っています。現在行われている上杉謙信の関東攻めに関する「越山」という展示を観に行きました。
1.上杉謙信と越山
2.戦国時代の戦の舞台城とは
3.謙信の越山と城攻め
4.関東の戦国時代と越山
5.城郭探訪 |
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天文17年にに家督を継いだ謙信は越後統一を果たし、同21年から17回に渡り関東侵攻を行いました |
↑の図(☆)は第2次越山時の謙信の動向と関東の城。黒が松山城、緑は忍城青は金山城です。 |
↑は岩殿山正法寺の僧栄俊が永禄3年以降の謙信越山の様子を記した「松橋流血脈裏書」 |
博物館は武蔵武士畠山重忠の居館菅谷館跡にあります。土塁や空掘りの跡は戦国時代のもの。 |
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☆は池亨著「動乱の戦国史:東国の戦国争乱と織豊権力」より引用。関東には50以上の城があった。 |
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上段:金山城址、松山城跡
下段:杉山城址、忍城土塁 |
深谷城で出土した塗椀と木皿 |
深谷城で出土した茶臼と天目茶碗 |
騎西城で出土した槍先と鏃(やじり) |
騎西城出土の左から鉄・銅・鉛の銃弾 |
武蔵地区の城跡の発掘調査から、戦国時代の生活や交流、戦の実態が見えて来る。攻められて実際に戦闘が行わわれた城からは銃弾が多数発掘される。松山城からは銃弾が3個、金山城からは主に鉛製の銃弾と鉄鏃が多数見つかっている。騎西城は北条武田連合軍が松山城落城の報復として、また越相同盟破棄に伴い謙信により攻略されており、多数の銃弾が出土している。銃弾は径11mmのものが多いが鉄製の19mmのものも出土、一部には命中して変形したものもあった。上のような生活用品も多く出土しており、中には中国伝来の染め付けのものや、当時武士の間で流行した茶の湯に関するもの、また武器鋳造の設備なども発掘されている。 |
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村上城 :新潟県村上市2018.8.12 |
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堀直竒により整備された一文字門の跡。石垣の上に塀を造り冠木門を付属させた二重構えの厳重な門構えでした |
村上城は臥牛山(135m)を利用した平山城。七曲りの道を登り三の丸に近づくと立派な石垣が見えて来ます。 |
「四ツ門跡」の石垣。四ツ門は細くなった尾根のくびれに位置しており、二の丸への進入を妨げます。 |
出櫓跡の石垣。手前も横も細長い通路しかありません。この上から攻撃されると進撃は難しかったと思われます。 |
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手前に冠木門があり、門の前後に枡形を形成しています。優れた築城技術をもつ堀氏の与力村上頼勝の改築です |
天守は江戸初期になって初めて建てられました。↑は天守跡。天守は3層と伝えられており、礎石が残っています |
臥牛山頂上から村上の街と日本海がよく見えます。白矢印はイヨボヤ館、黄色矢印は三面川の種川の流れ |
城主の御殿は麓に建てられていました。千坪を越える敷地を堀と石垣が囲み、月見櫓や多くの櫓、門がありました |
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宇都宮城 :栃木県宇都宮市2018.10.7 |
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宇都宮城は平安時代後期に築かれ、鎌倉時代は宇都宮氏の居城でしたが16c末秀吉に滅ぼされ、江戸時代は譜代大名の城となりました。
↑は再建された富士見櫓 |
幕末の戊辰戦争では旧幕府軍に攻められ、城も城下も焼失しました。平成元年から発掘調査が行われ、本丸跡に土塁、堀、富士見櫓、清明台などが再建されました |
↑再建された清明台は、本丸土塁の坤(北西)にあった二重櫓で、ここの土塁は他より高く築かれていることから天守として使われたと考えられています。 |
将軍の日光社参の宿泊は岩槻城、古河城、宇都宮城でした
。だから本丸御殿は将軍のための施設で、城主の住居は上の絵図に描かれているとおり二の丸にあるのです。 |
↑は歴史資料館「清明館」。「寛政の三奇人」の1人蒲生君平は宇都宮の出身。幕末、坂下門外の変で藩が減封の危機を迎えた時、彼の「山陵志」に従い、転封を免れました |
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2018年 11月18日に2級と準1級を併願で受験し、準1級は不合格でしたが2級は合格し、暮れに合格認定証を頂きました。 |
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小田原城 :神奈川県小田原市2018.12.13 |
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お城の南東部の馬出門(薬医門)。馬出とは出撃時、兵を集める広場。手前は大名の馬をつないでおく厩曲輪。 |
二の丸に続く「銅(アカガネ)門」。形式は櫓門で文字通り銅板を張り付けてあります。平成6年に復元されたものです。 |
小田原城は廃藩置県で明治3年廃城となり、天守や門は解体されました。↑は残っていた銅門の礎石。 |
銅門の奥二の丸のスペースには、周囲3.9mもあるビャクシンの木があります。捩れたような幹が特徴です。樹齢は不明 |
常盤木橋からみた、本丸を囲む東堀跡。もとは水濠で、文久年間の絵図に依れば幅20mの部分もあったとのこと |
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本丸へはやはり櫓門の常盤木門をくぐります。昭和45年に木造で復元されたもの。 |
天守は3重3階のコンクリート造。昭和35年、江戸時代の絵図に従い復元された復興天守 |
天守のある本丸が北西奥にあり、手前を二・三の丸が囲む梯郭式縄張です。 |
天守から石垣山を望む。北条攻めの時、秀吉は80日で城を造り一気に木を切り一夜にして城が出来たように見せました。 |
城内には、幕末期に小田原藩の財政を救った二宮尊徳を祀る二宮神社があります。右下は可愛い尊徳守り |
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座喜味城:沖縄県読谷村2019.2.11 |
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15C初めに読谷山按司護佐丸が築いた座喜味城。戦時中は旧日本軍の高射砲陣地となり、占領中は米軍のレーダー基地に使われました。 |
上のような石門アーチが沖縄の城の特徴です。S47日本に復帰後、崩れていた石垣や石門は復元修理され、H12には世界遺産に登録されました。 |
左は石門アーチ上部の楔形石。沖縄で最古のアーチ構造の門と思われる。右は石垣の角。本土内の城の石垣にもみられる算木積みが使われています。 |
一の郭はまわりを海に囲まれた高台。ここには礎石建物跡があります。屋根瓦は出土していないので屋根は板葺か茅葺だったと思われます。 |
大きな牛豚の像がある読谷村の沖縄ハム工場。同所には黒糖の製造工場もあり、売店横の食堂ではすっぽん入り沖縄そばも提供しています。 |
中城城:沖縄県北中城村2019.2.11 |
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14c頃から中城按司(王)が数世代に渡り築いた中城城。やはり世界遺産です。正門のある西側までカートで登ります。 |
西向きに建てられた正門(櫓門)。せり出した石垣の手前にはハンタ道(公道)に向かう狭間が作られています。 |
雨乞いの御嶽(うたき)。うたきとは祭祀を行う場所。今も訪れる人々が拝んでいます。城址内に8つの拝所があります |
美しい曲線を描く二の郭の石垣。幕末ここを訪れたペリーは技術に驚き、測量させた(ま、スパイ行為だけど)そうです |
最も広い一の郭には正殿跡があります。後には間切番所、明治期には中城村役場がありました。南東方向は海 |
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関宿城(博物館):千葉県野田市2019.4.4 |
関宿と関宿藩についてはここに詳しくかいてあります→ 中世の関宿・関宿藩誕生・幕府を支えた老中・外交との関わり・関宿藩士・動乱の幕末 |
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関宿は野田市の最北端、利根川と江戸川の分岐点にあります。関宿城の模擬天守が博物館になっています。 |
北関東のこの辺りは湖沼地帯。家康が江戸に入部した1690年には利根川も荒川も江戸湾に流れこんでいました |
関宿の歴史は北関東の治水の歴史でもあります。↑の「蛇籠」は石をいれて川の改修や災害復旧に使われるもの。 |
鬼怒川、古利根川等川の多いこの一帯は少し大雨が降るとたちまち水没してしまいます。それで↑のように「水塚」を造り、米などを保存します。 |
徳川幕府は利根川を江戸川と切り離して太平洋に流し、江戸を水害から守ると共に水運を発達させました。↑は高瀬舟(パンフより) |
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4階の展望台から見えるのは利根川と筑波山。昨年の大水の時は、河川敷は全て水に覆われたそうです。 |
江戸川方面から博物館。実際の関宿城があったのはこの右手前。関宿城の天守(三階櫓)は「模擬天守」です。 |
水量の調節と河川舟運を目的に大正7年から昭和2年にかけて建造された江戸川の水門と閘門は今も現役です。 |
関宿藩初代の藩主は家康の異父弟、久松松平家の松平康元。彼の墓は関宿城近く、宗英寺にあります。 |
宗英寺は1596年創建。↑左は足利晴氏の墓、右は関宿の大治水工事に業績を残した関宿藩士船橋随庵の墓 |
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高田城 :新潟県上越市2019.4.30 |
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高田城は家康公六男忠輝入封時に天下普請で建てられました。天守が無く、石垣も無いのは豊臣牽制目的の築城を急いだ為といわれています |
蛇行する関川が外堀の役を果たしています。↑は平成5年に復元された天守代わりの三重櫓の最上階からの眺望。中央の山は妙高山。 |
ここは上杉の領地でした。景勝が会津に転封となった後堀氏が入封して海寄りに福島城を建てましたがお家取り潰しとなり、松平忠輝が入りました |
上越市立歴史博物館では「御所三大・聚楽第行幸図屏風」が特別公開中。最後の藩主榊原家と徳川家との婚礼メニュー等の展示もありました |
新発田城:新潟県新発田市2019.5.2 |
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2015にも新発田城に行きましたが、時間が無く、勉強不足で隅櫓となまこ壁だけ見て肝心の復元三重櫓↑が見える場所に行きませんでした |
城郭の勉強を始めてから、この珍しいT字型屋根と三基のしゃちほこの存在を知り、今回はしっかり写真を撮りました。平成16年木造復元。 |
「清水園」は新発田藩主溝口氏の別邸。3代宣直の時に、庭園は4代重雄の時に幕府の茶道方縣宗知が築庭。清水谷御殿と呼ばれました。 |
清水園に隣接して足軽長屋の遺構が残っています。茅葺平屋建て八軒長屋で、「北長屋」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています |
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高崎城跡:群馬県高崎市2019.5.14 |
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家康の命によりここに城を建てたのは井伊直政。当初「松ヶ崎」と名付けたが木は枯れるからと「高崎」にしたとか |
二層二階の乾櫓と東門。共に民間に払い下げられていましたが、S54ここに移築されています。 |
水堀も遺構として残っています。躑躅がきれいでした。周辺には広々とした公園がいくつもありました。 |
櫓のある場所に続く土手を歩くことができます。今は躑躅が盛り。春は桜が綺麗だそうです。 |
箕輪城跡:群馬県高崎市2019.5.14 |
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箕輪城は16C頃この辺りを支配していたた長野氏の築城。本丸は黒↓。青↑は駐車場のある搦手口 |
難攻不落の箕輪城でしたが、1566年武田氏に落とされ城主は次々交代します。井伊直政の時、高崎に城が移り廃城 |
左上は「本丸」の石柱と本丸と御前曲輪の説明板。上はH28復元された、関東では最大規模の郭馬出西虎口門 |
箕輪城は日本百名城。百名城スタンプが置いてある市役所には長野氏の重臣下田氏の屋敷(重文)がありました |
岩櫃城跡:群馬県東吾妻町2019.5.14 |
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南北朝時代の築城と考えられる岩櫃城。吾妻氏が居城としていましたが1563年武田信玄家臣真田に滅ぼされました |
その後は真田家の城。関ヶ原では徳川方でしたが一国一城令で廃城に。↑は天狗丸からの眺望 |
時間が無く本丸は攻略できず。↑は観光案内所にある城の模型。山頂の巨岩郡はこの城を難攻不落のものに。 |
観光案内所で「続日本百名城」スタンプを押したら、真田の赤備え鎧の袋と六文銭の付いたボールペンを貰いました |
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小机城 :神奈川県横浜市2019.6.19 |
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小机駅隣の地区センターで続百名城スタンプを貰い、小机城址市民の森へ。整備された竹林の道を登ります。 |
山麓の根古谷には城主の館がありました。上は本丸へ行く途中随所にある空掘の跡。右の写真は土塁です。 |
小机城は小田原北条氏の軍事拠点として築かれましたが戦闘の記録は無く、徳川時代に廃城となりました |
7,8分ほどで本丸広場に着きました。冠木門が建てられています。少し下がったところに二の丸(旧本丸)があります |
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八王子城Ⅱ :東京都八王子市2019.6.20 |
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前回は本丸登山。今回は山麓部の御主殿跡と御主殿の滝に行きました |
曳橋が復元されています。敵が押し寄せたら橋げたを曳き倒して侵入を防ぎます |
築城当時(400年前)の石垣。城山産出の砂岩の野面積。小砕石を多く使っています。 |
御主殿の虎口。この踊り場には4つの建物礎石や排水用の石組側溝も見つかりました。 |
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会所跡。主殿での儀式の後の宴会などに使われた場所と考えられています。 |
会所跡横にある庭園跡。池を配し、池底は粘土敷き。雨水を貯める程度だったようです |
二筋流れ落ちる御主殿の滝。天正18年秀吉に攻め落とされた時、御主殿にいた兵や女子供が自刃してこの滝に身を投げ、その血で城山川は赤く染まったそうです。右は慰霊碑 |
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岩槻城 :埼玉県さいたま市2019.6.23 |
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岩槻城址は現在、殆どが野球場や広場など市民の憩いの場として使われています。 |
↑は岩槻城と城下町模式図岩槻城は日光社参時の将軍の宿泊城。重要な城でした |
岩槻城の門とされる「黒門」。廃藩置県で撤去され、浦和庁舎や市役所の門を経て移築 |
明和7年建造の裏門。民間に払い下げられたが明治42年有山氏から市に寄贈された |
「ふるさと散策路」は遺構の堀底道。深さ90cmの堀障子が3基発掘されています。 |
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遷喬館↑は 「岩槻に過ぎたるものの二つあり。児玉南柯と時の鐘」とうたわれた児玉南柯(なんか)の私塾でした。 |
それが後に藩校となりました。埼玉県で建物が残っている藩校は遷喬館のみです。この名の由来は「詩経」から |
南柯は甲府生まれ。岩槻藩士の養子となり大岡家に勤めるましたが部下の不正の責任を取り辞任、開塾しました。 |
時の鐘は阿部家が藩主の時代に作られましたが現在のものは大岡7代藩主の時代のもの。市の指定文化財です。 |
岩槻城の遺構は殆どありませんが、ところどころに城下町の街並みが残ります。↑は武家屋敷の雰囲気の「裏小路」 |
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福井城 :福井県福井市2019.6.26 |
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初代福井城主結城秀康は家康公の次男。福井城の完成は慶長11年。何重もの堀に囲まれた広大な城でした。 |
天守閣跡の石垣が残されています。福井大地震で崩れた部分もあります。天守は寛文9年の大火で焼失しました。 |
福井の地名の元となった「福の井」が天守跡に再建されています。 |
平成29年に山里口御門が復元さました。櫓門の屋根は笏谷石。内部では工事の様子が展示されています。 |
山里口御門に続くお廊下橋も復元。この手前にあった藩主の御座所(現在は公園)から橋を渡り本丸に入りました |
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丸岡城 :福井県坂井市2019.6.26 |
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丸岡城の天守は現存12天守の中で最も古い建築様式です。通し柱の無い二重三階、望楼型。屋根は石瓦です。 |
畳半畳程の大きさの城模型には忍者3人,くの一2人.犬2匹鶏11羽がいるので探して下さい、とあります。難しい |
恐ろしく急な階段は手すりの他に結び目のある縄もついている |
でも上がった先の眺望は最高(高欄には出られません)。左下は元藩校平章館跡の平章小学校です。 |
瓦屋根では厳冬期に瓦中の水分が膨張して割れてしまうので石瓦です。福井特産の笏谷石を用いています。 |
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出窓型の石落し。杮葺きの屋根のついた木製の窓枠は素朴で、如何にも戦国時代の天守といった無骨さがあります |
元は木製銅張の鯱。戦時中は石に置き換えられていました。昭和27年からの修復で、現在は再び銅張のものが上がっています。 |
城、資料館、一筆啓上の館共通入場券は坂井市特産の織ネーム製栞付き |
天守に上がる階段横にある郷土資料館。坂井市の伝統や丸岡城歴代の藩主、それぞれにまつわるエピソード等が展示されていました。 |
丸岡町牛ヶ島御野山古墳出土の「牛ヶ島石棺」。くり抜式舟形石棺で、4~5世紀のものと考えられる。S45まで橋として使われていたそうです |
日本一短い手紙で知られる「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」は「鬼の作左」として知られる徳川家家臣本多作左衛門が家族に書いた手紙。「お仙」は初代藩主本多成重であったことから、「一筆啓上賞」が設けられ、近くに「日本一短い手紙の館」が建てられています。 |
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小松城 :石川県小松市2019.6.27 |
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小松城は慶長5年から前田氏の所有となり、前田利常公の隠居城として整備されました。↑は現在残る天守台の石垣 |
水路に囲まれ広大な敷地を持つ城でしたが幕末頃から徐々に取り壊され埋立や売却が進みました。 |
天守台の石垣は見事です。上は亀甲積の部分。下は石垣角の算木積の大石。 |
天守台から徒歩5分ほど、三の丸庭園跡は「芦城公園」となっています。大石橋や巨木に当時を偲ぶことができます |
芦城公園内の前田利常銅像 |
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金沢城 :石川県金沢市2019.6.28 |
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玉泉院丸庭園から入りました。玉泉院とは前田利長公の正室で信長の娘、永姫。 |
美しい「色紙短冊積石垣」を是非観たくて来ました。雨で色がくすんでいたのが残念 |
現尾山神社辺からのお城への入口だった鼠多門口の復元工事が行われています |
2020年完成予定。見学場所には工事の説明や木組みのサンプルが展示されています。 |
白壁の土台や木枠に縄が巻いてある段階でした |
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二の丸広場。左端が菱櫓。五十間長屋となっている櫓が続き、右端が橋爪門続櫓と枡形の橋爪門。H13~27にかけて復元されました。中に入る事ができます。 |
続櫓から見た橋爪門枡形。手前に高麗門、右が櫓門。明治期に焼失し134年ぶりに再建 |
橋爪門(↑櫓門)は二の丸の正門。最も格式の高い門とされています。鉄鋲が頑丈そう |
橋爪門(高麗門)と橋爪橋 |
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菱櫓は底面が菱型です。階段の手摺りの金具を見ると菱型なのがわかります。 |
河北門も枡形を形成しています。この奥の石垣には唐破風屋根の睨櫓が付いています |
橋爪門、河北門、石川門は金沢城三御門と呼ばれます。↑は石川門の枡形 |
向かって右は綺麗な布積、左はあまり加工していない石の打込接ぎ。何故かは不明 |
唐破風が櫓門の出窓にも使われています |
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嘉永元年武器庫として建てられた鶴丸倉庫は全国一大きな土蔵です。国の重文 |
丑寅櫓跡。石垣は文禄元年の築造と推定されます。櫓は宝暦の大火で焼失しました。 |
東南角に建つ辰巳櫓跡から東には兼六園、南には金沢の街が見下ろせます。 |
戌亥櫓跡。やはり宝暦の大火で櫓は消失し、再建されることはありませんでした。 |
↑戌亥櫓跡の高台から見える橋爪門。 |
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本丸への入口鉄(クロガネ)門跡の石垣は丁寧に加工された切石積みとなっています。 |
三十間長屋。江戸時代初期建造の建物は宝暦の大火で焼失、幕末に再建されたもの |
二の丸と本丸御殿間の空掘にかかる極楽橋の名は金沢御堂に由来すると思われる |
お城周囲の大きな堀は皆埋められて道路になり大手掘のみが残っています。 |
↑大手門石垣横に咲いていたシロバナギボウシ |
兼六園前田家5代綱紀が作庭させた大名庭園。宝暦の大火後11代治脩が復興し12代斉広13代斉泰が改築拡張して現在の形に。 |
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徽軫(コトジ)灯篭。土台部分が琴の糸を張る琴柱(コトジ)の形をしています。 |
13代前田斉広が松の名所琵琶湖の唐崎から種子を取り寄せて育てた「唐崎の松」 |
飛んでいく雁の列の形の雁行橋。亀甲型の赤戸室石11枚で出来ており亀甲橋ともいう |
色々な形の石を七福神に見たてた築山は「七福神山」。別名「福寿山」 |
霞ケ池との落差で吹き上がる日本最古の噴水。 |
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二本松城 :福島県二本松市2019.7.14 |
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二本松城は戦国時代までは畠山氏の居城、伊達氏に落とされ、その後は会津の支城時代が続き、江戸時代は蒲生、加藤、丹羽氏らが入りました |
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に属し、新政府軍と壮絶な戦いになりました。二本松少年隊の悲劇を伝える説明音声が流れる銅像があります |
↑の箕輪門は江戸初期の城主丹羽光重建造の櫓門ですが、戊辰戦争で全ての建物は灰塵に帰しました。現在の門はS57に再建されたもの。 |
慶應4年獅子奮迅の戦いをした内藤四郎兵衛戦死の地の立札 |
土塀の代りに石垣上に植えられた箕輪門のアカマツは、明暦の修理の記録から、樹齢350年を超えることが推定されます。 |
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築城の名手蒲生氏郷が作ったとされる本丸跡の石垣は大変立派で、圧倒されます。 |
標高345m白旗ケ峯の本丸跡からは二本松の街が一望の元。晴天なら安達太良山も。 |
東櫓台跡。反対側には西櫓台、本丸虎口跡なども残っています。右は 城代丹羽和左衛門、勘定奉行安部井又之丞自刃の碑 |
二本松市歴史資料館の庭に丹羽氏上屋敷跡出土の石垣の一部が展示されています |
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試験日は令和元年6月9日。お稲荷様の御利益があったみたい。7月20日に準一級の合格証が届きました。→
なーんか、2級の合格証の方が豪華に見えるんだけど気のせい? |
準一級を受験。試験場は日大キャンパス。試験問題ゲットの為に一級も併願しました。 |
試験場に行く途中に三崎稲荷があったのでお参りして行きました。ご利益は? |
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四ツ山城(高見城) :埼玉県小川町2019.7.28 |
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読みにくいですけれど「高見城址」の石標 |
四ツ山神社の鳥居がお城への登り口になります。標高200mほどの山城です |
写真左の細い通路は犬走り跡。土塁と溝の間や土塁の斜面の通路のことです |
階段と坂を登る途中の腰部にある不動堂。中の不動明王は新しそうですが。 |
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腰部から一気に急階段を上がり本丸跡へ |
ここからの眺めは最高です。こちらは南西。北西方面には鉢形城があります |
南東方面も開けた平野です。この先には武蔵松山城があり四ツ山城は重要です |
現在本丸跡にあるのは四ツ山神社です。「四津山神社」の扁額があります。 |
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白河小峰城 :福島県白河市2019.8.12 |
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丹羽長重が徳川から十万石に相応しい城を、と許可されて寛政9年に築いた城。まず立派な石垣が目を引きます |
本丸への入口だった清水御門跡には現在冠木門が作られています。「小峰城跡」の石碑が建っています |
平成2年に木造復元された御三階櫓は小ぶりですが美しく、堂々とした姿です。 |
御前門(内郭側)も木造で復元されています。白壁と黒の下見板張りが美しい櫓門です |
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御三階櫓下からは白河の町並みが一望できます。 |
本丸御殿跡。小峰城は戊辰戦争の際にすべて焼け落ちてしまいました |
お城築造の時人柱となった娘を悼んで植えられた「おとめ桜」の碑。木は二代目です |
ここに来たら是非おすすめしたいのが「白河ラーメン」。コシのある麺と塩辛すぎないスープ |
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鮫ヶ尾城 :新潟県新井市2019.8.14 |
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まず案内所に行くことをお勧めします。ここで続100名城スタンプももらえます |
案内所の管理人の方がとても親切で、この池のほとりからの登城口を案内してくれます |
登城路に入ると竪堀が良く残り、それぞれに番号が振ってあります。30分程の登り坂 |
本丸の手前にはロープを設置してあるかなり急坂の箇所もあります。高度を稼げて楽 |
息切れしながらたどり着いた頂上からの眺望は素晴らしく、疲れを忘れます。 |
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ここは「御館の乱」で敗れた上杉景虎が逃げ込み、自刃したと伝えられるお城です。 |
帰りは北登山道から降りました。途中突然現れる巨大な建造物は上信越道の隧道です |
案内所に降りてくると、管理人さんが冷たい麦茶、トマト、枝豆、漬物を出して下さいました |
鮫ヶ尾城を守る斐太神社は由緒のある神社。上杉謙信も厚く信仰したといいます。 |
斐太遺跡群、観音平古墳群などもある史跡の里です。↑は復元された竪穴式住居 |
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毛呂山城(竜ヶ谷城) :埼玉県毛呂山町2019.8.19 |
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毛呂城城主だった毛呂氏の墓所がある金嶋山長栄寺。ここの境内に毛呂氏館跡の碑があります。 |
毛呂土佐守顕季が館を廃して寺を建て龍穏寺 七世和尚を招いて開山したのが長栄寺です。 |
頼朝配下だった毛呂氏は地頭を務め城を築いたが秀吉の北条攻めの時落城し滅びました。↑は供養塔群。 |
空掘りに見える窪みもありますが、館跡碑によれば水利の悪い高台なので山中腹の谷川からの用水路跡かも。 |
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田波目城(多和目城):埼玉県坂戸市2019.8.19 |
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田波目城は多和目地区の城山(標高113m)に築かれた山城。築城主や築城年代ははっきりしませんが、1524年に扇ヶ谷上杉氏が毛呂城を攻めた時の記録に「たわめ城」が登場します。S47に調査が行われ土塁や柱跡が見つかっています。 |
向う側が少し高くなっており、土塁跡と思われます。進入できる範囲でははっきりした空掘などはわかりませんでした |
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騎西(キサイ)城(私市城) :埼玉県加須市2019.8.22 |
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築城主や築城年代は不明。15c 上杉対足利の戦いに登場するのが初見。16c半ば上杉謙信に攻め落とされた。 |
S54の発掘調査で戦国~江戸時代の武器や柱跡等が出土、城周囲の二重の障子掘なども見つかっている |
この建物は模擬天守で、資料館となっていますが、公開されるのは年4回程度。この日も閉館していました。 |
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忍城Ⅱ :埼玉県行田市2019.8.22 |
以前に行った時貰わなかった続100名城スタンプを押しに。でもこの前は気づかなかった撮影スポットを発見して写真を撮りました。 |
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S63に建てられた復興天守。1701年に阿部正武が築いた天守は明治維新後取り壊されました。この天守はそれより大きく、外観も異なります。 |
↑は堀に架かる橋に続く正面の御門。忍城は明治になり売りに出された時は\100で落札されたのだそうです。 |
駐車場内にある「本丸跡」の石碑 |
お殿様とお姫様の絵。でも「後架」とか「雪隠」ではなく「トイレ」でした。 |
吹上駅行きのバス停。忍城バス停はお城の形をしています。 |
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寺尾城(殿山寺尾城) :神奈川県横浜市2019.8.29 |
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後北条氏に仕えていた諏訪三河守が5代に渡って居城としていました。武田の小田原攻めの後廃城となったらしい。↑高台の住宅地に城跡の石碑と説明板があります。 |
寺尾城跡の石碑から徒歩5分程下ったところにある殿山公園には土塁や竪堀が残っています。夏は草が茂っているため見づらいですが、園内の階段沿いに竪堀があります |
殿山公園から徒歩3分、5代城主馬之助(馬之丞?)が夢で神託を受け祈願成就をした馬場稲荷(寺尾稲荷)があります。馬術上達や馬場安全祈願で有名だったそうです |
寺尾城跡から10分程西に歩くと諏訪氏ゆかりの寺徳雄山建功寺があります。5代城主馬之助開基、寺紋は諏訪氏の替え紋である「諏訪梶」 を使用しています。 |
建功寺周辺は静かな住宅地で、自然も残されている地域です。↑は建功寺川の流れに沿って整備されている「せせらぎの道」 |
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沼田城 :群馬県沼田市2019.9.1 |
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16c半ば片品川河岸段丘の端に築かれた沼田城。真田氏と北条氏の間で領有権の争いとなり、北条氏滅亡後は真田氏が城主となりました。 |
5代目信利は松代城に移り、その後真田氏は改易となり本多氏、土岐氏らの支配となりました。↑は北村明道作の真田氏時代の城の絵(S28) |
維新後廃城となり、旧沼田藩士の子息久米民之助氏が荒れ果てた城跡を買い取り、公園に整備して市に寄贈したそうです。現在は沼田城址公園(「日本の歴史公園百選」)となり、遺構は櫓台、櫓台の石垣と堀の一部です。信利が作らせた鐘のレプリカのある真田氏時代の鐘楼が再建されています |
観光案内所で続百名城スタンプを押し、↑の「御城印」と蒟蒻をゲットしました。 |
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前橋城 :群馬県前橋市2019.9.1 |
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前橋城はもと厩橋城と称し、関東七名城のひとつといわれました。権勢を誇った酒井氏も領有していた城。維新後本丸は県庁として使われ、新庁舎も同所にあります。↑は土塁にある城跡の碑 |
元はこの近くにあった石倉城が流れを変えた利根川の奔流により破壊され、その三の丸に建てられたのが厩橋城という説が有力。↑は整備された利根川河川敷の公園 |
生糸輸出のため海外に出発する新井領一郎と、初代群馬県令楫取素彦、兄吉田松陰の短刀を手渡す彼の妻美和子の銅像が前橋公園内に設置されていました。 |
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佐倉城 :千葉県佐倉市2019.9.5 |
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佐倉城址で何と言っても目を引くのは巨大な角馬出。歴史民俗博物館の目の前にあります |
佐倉城は1611~17年に土井利勝が築城した平山城。江戸の東を守る重要な城で老中も多く輩出しています。 |
土塁や空掘り、郭跡が良好に残っています。↑は出曲輪に向う「へび坂」すぐ横は本丸ですが鬱蒼とした林と崖です。 |
左は米国との交渉にあたった幕末の藩主堀田正睦公の銅像。右は子規の句碑。「常盤木の冬されまさる城の跡」 |
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右上の城図の「本丸」右下隅にある「天守跡」の石碑。 |
本丸跡は手入れの行き届いた芝生がはってありました |
三の丸御門から南東の大手門跡の石碑までは真直の道 |
その70mほど先に藩校「成徳書院」跡の碑があります。 |
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江戸城和田倉門と皇居外苑2019.10.03 |
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いつも通り過ぎていた和田倉橋をわたり、和田倉噴水公園に行ってみました。 |
和田倉橋の先には和田倉門跡の枡形。 |
美しい噴水公園。この手前にはモダンな無料休憩所があり、平日は外人観光客が多い |
桔梗濠の石垣。大名の刻印ではない何かの彫刻がほどこされていたので撮影 |
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辰巳(南東)角にたつのは巽櫓。お堀、石垣、櫓はやはり日本の城の象徴ですね |
その向こうに桔梗門(内桜田門)が見えます。昔屋根に桔梗の紋が付いていたことから |
あまり入ったことのない皇居外苑に行ってみました。近くのサラリーマンがランチを広げる場所 |
これもあまり近づいたことのなかった楠木正成像。外人観光客が囲んでいました。 |
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金尾要害山城 :埼玉県寄居町2019.10.24 |
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金尾要害山城は北条氏邦の家臣金尾氏の居城。北条氏の本拠、鉢形城の西方及び後方を守る支城でした。 |
金尾山は現在「つつじ山公園」として整備されており、標高229mの頂上にはトリデ風の展望台が立っています |
天正18(1590)秀吉の小田原攻めで鉢形城が落城。金尾要害山城も廃城となりました。↑説明板と眼下の荒川流域 |
展望台から鉢形城方向を望む。眺望は良好です。荒川は数日前の台風の影響で濁っていました。 |
秩父鉄道には週末や祝祭日にSLが走っています。運が良ければ山頂から煙が見えます |
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名胡桃城:群馬県水上町 2019.11.3 |
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名胡桃城は天下統一のきっかけを作った城として有名です。秀吉から真田に安堵されていた利根川の西(オレンジ色)にあった名胡桃城を北条方が攻略したことが秀吉の北条攻めの口実となりました。↑は名胡桃城の歴史を展示している案内所。ここで続日本百名城のスタンプとお城印をゲットしました。 |
名胡桃城址の縄張図。案内所の付近(もと般若郭)から三の郭、二の郭、本郭と続く連郭式縄張。さらに東側の笹郭からは沼田城方面を望みます。 |
馬出が復元されています。武田がよく用いた丸馬出です。真田氏は武田勝頼の命で沼田氏を滅ぼし名胡桃城を手に入れ、整備しました。 |
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二の丸南虎口の堀と、復元された木橋。周囲は堀や土塁がよく残っています。 |
二の丸北側にある見晴台。ここからは東の方向が見渡せます。この先の橋を渡り本郭へ。 |
本郭中央の安山岩の石碑は大正3年に建てられたもので、徳富蘇峰の揮毫。 |
本郭からの眺望は素晴らしい。↑は北方向。月夜野、その先に水上の町と谷川連峰 |
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赤塚城:東京都板橋区2019.11.14 |
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赤塚城は北条に仕えた赤塚千葉氏の居城。成増から徒歩20分 |
築城ははっきりしていませんが、北に荒川を望み南には鎌倉街道へ抜ける道を望む要衝の地にあります。 |
左は赤塚公園の広場となっている本丸跡、↑は本丸に続く土地で梅畑だったところを「城址梅林」として整備したもの |
本丸から急坂を降りていくと溜池があります。縄張り図では本丸周囲に湧水池がいくつもあったのでその一つかも |
本丸下南側の乗蓮寺にある「二の丸跡」の石碑 |
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滝山城 :東京都八王子市2019.12.1 |
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滝山城は1521年大石氏が築城、北条氏照が改修し居城としたが、武田による北条攻めの際に八王子城に移ったと考えられています。 |
左は天野坂。竹林の間を通る急峻な坂を上ると数分で三の丸と小宮曲輪の間の枡形虎口に出ます。堀や虎口がはっきり残っています。 |
↑は三の丸から千畳敷郭に向かう道に作られた「コ」の字型の土橋の模式図。進路を4回も替えさせ、側方からの強力な攻撃が可能です。 |
左上が三の丸。深い空堀、堀底道を阻む土橋、そして橋上の通路は屈曲していて攻撃を受けやすくなる、堅固な要塞となっています。 |
広々とした千畳敷址。この右側にはベンチが置かれ、市民の憩いの場になっています。この先少し降りると弁天池の跡が見えます。 |
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二の丸は3つの虎口全てに馬出を備えた、最も防御性の高い郭です。(右上:角馬出、左下:大馬出、右下:東馬出) |
本丸跡では紅葉が始まっていました。正面は「霞神社」。明治45年に建てられたそうです。 |
「史跡滝山城址」の石碑と「滝山城本丸址」の碑。この奥北側には出丸があり、本丸を守っています。 |
本丸と中の丸をつなぐ橋が復元されています。この橋は「引橋」で、切って落とすことにより敵の進入を防ぎます。 |
中の丸広場には最近までここにあった国民宿舎の建物が残されていて、続百名城スタンプ設置場所となっています |
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2020.1.13 |
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1軍を組織する
2城の備えと兵糧
3軍資金
の3つの視点からの分析が行われていました。 |
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出陣に際して指示される事のあった、金箔を押した馬鐙 |
戦の際に着用の上で参陣が命じられた煌びやかな甲冑 |
八王子城跡で出土した大砲の弾とその鋳型 |
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武士たちは自前で刀等の武器を調達して参陣していた |
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騎西城武家屋敷で見つかった戦国時代の金貨 |
武田氏が開発した黒川金山で使用されていた鉱石粉砕用の回転臼 |
真利谷城跡で出土した戦時の食事がわかる炭化米の塊 |
金箔を用いた甲冑や馬鐙を着けて参戦するよう指示した文書が展示されていました。また、戦果を報告する文書では、敵方の死者の人数などに矛盾が見られ、必ずしも多数の首級をあげてはいないこと、甲冑も回収して修理したことが覗える文書もありました。これは大きな戦いの後でも、生産活動にあまり落ち込みがなかったことからも推察できます。兵糧は雑兵が持参、近在農民から借りる、金銭で商人から買い上げる、など様々な方法をとっていたこと、資金調達は主に税収で、農民は米や労役で支払うことが多かったが、商人からの貨幣徴収も重要であったため、城下の商い促進に努めていたこと、また、武田氏館跡からの出土品などから、金鉱石から金を採取する方法も詳細に説明されていました。 |
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本佐倉城:千葉県酒々井町2020.2.6 |
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本佐倉城は14cに下総守護千葉氏が築城.。1590秀吉に滅ぼされるまで千葉氏の居城でした。拠点は後に現在の佐倉城に移されました。 |
物見台のある東山と城山の間の東山馬場は一部が駐車場となっています。↑の右に東山の物見台への登り口があります。 |
物見台からの眺望。北方向、筑波山方面です。京成線が見えました。 |
城の中核があった城山への虎口。城跡散策コースの随所に詳細な説明板が立てられていました。 |
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城山からの眺望。こちらは東側、印旛沼の方向です。この辺りにはところどころ写真のように隆起した台地がみられます。佐倉の街も台地上です |
奥ノ山、別名妙見郭では発掘調査により、妙見宮跡と思われる14m四方の基壇が見つかりました。藪漕ぎをしたら服がヒッツキムシだらけになりました |
奥ノ山の郭の東に、倉跡とおもわれる平地があります。ここからは炭化米などが見つかっています。 |
「本佐倉城跡」の石柱のある駐車場から。左の高台が城山です。 |
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龍岡城 (長野県佐久市)2020.9.21 |
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龍岡城は星型稜堡の洋式城郭。幕末の藩主大給松平乗謨は三河4千石からこの地に領地替えと新陣屋建設を願い出て許され、龍岡城を築きました |
高遠藩から洋式築城の石工を招き、地元の佐久石(溶結凝灰岩)を用いて、亀甲積、布積の石垣が築かれました |
稜堡周囲の堀の幅は7~9mほどですが、南西と西側の稜堡周囲は未完成で堀がありません。 |
駐車場横「であいの館」に龍岡城や大給松平家についてのガイドがあります。↑は現在の龍岡城の模型 |
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であいの館で、展望台への道案内の地図を貰い、北側の田口城のある山に向かいました。未舗装の狭い道を1,5kmほど登り、最後100mは徒歩 |
山腹に龍岡城の星型を確認することのできる展望台が作られています。郭内に見える建物は田口小学校です |
明治4年に城は取り壊されましたが、御台所は翌5年の学制発布に伴い、学校として使われるため残されました。 |
領内には侍長屋や家老屋敷、郭内には広間や正殿、書院などを備えた御殿、太鼓楼、練兵場、砲座など。 |
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唐沢山城栃木県佐野市)-2020.10.18- |
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唐沢山城はムカデ退治の藤原秀郷築城と伝えられる。戦国時代は佐野氏の居城で、上杉謙信の度重なる城攻めでも落ちませんでした。 |
付きだした岩の頂上から周囲を見張る役割を果たしていたと考えられる天狗岩。「大剣山」とも呼ばれます。 |
登城口の食い違い虎口。L字型に土塁を作ることにより敵の侵入を妨げ、両側からの攻撃を可能にしています。手前は枡形。 |
尾根伝いに東西に延びた曲輪を分断する四ツ目堀。かつてはここに曳き橋がかかっていました。今は「神橋」が掛けられています |
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桜の木が多かったことから「さくらの馬場」と呼ばれた馬の訓練場。この下には竪堀が掘られています。 |
南局跡。 古地図によっては「二の丸」としているものもあります。かつては奥女中の詰所といわれます |
関東では極めて珍しい高石垣。本丸南西をを南局まで約40m伸び、高さは8mを越えます。 |
佐野氏が豊臣秀吉と深い関係にあり、西日本の技術が導入されて築かれたと判断されます |
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南城から佐野の街を見下ろした南側。それほど快晴でもなかったのに埼玉、東京まで見渡せます |
右の⇒の先にスカイツリー、その左がおそらく新宿の高層ビル。左の⇒の先はさいたま新都心のビル群 |
西側にまわると、浅間山が見えました。この日が初冠雪ということで頂上が白くなっています |
築城の時霊夢により掘ったところ湧き出た「大炊の井」。径8m、深さ9mあり、今も水を湛えています |
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土浦城(茨城県土浦市)-2020.10.25- |
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室町時代後期頃若泉氏築城と伝えられる。江戸時代中期以降は譜代の土屋氏が藩主。S10に亀城公園として整備され、現在は続日本百名城に指定されています。 |
櫓門は明暦2年のもの。本丸の櫓門としては関東地方に現存しているのはここのみです。櫓には太鼓が置かれ「太鼓櫓」と呼ばれていました。S62解体修理されました |
西櫓(最初の写真)と東櫓(↑)が復元されています。東櫓は土浦市立博物館の付属展示館となっており、内部には城や水戸街道の歴史や鯱などが展示されています |
↑は櫓門に置かれ時を知らせていた太鼓。H22の皮張り直しや漆の修復が行われ、胴内の墨書から明和7年江戸浅草の太鼓師によって作られたことがわかりました。 |
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亀城公園の大シイ(スダジイ)。ブナ科の常緑樹で、籠城の際に、実は食用になります。 |
土浦市立博物館。土浦の立地や歴史、文化の他、土屋家関連の文化財が展示されています |
入ってすぐ目を引く大筒花火(左)と高瀬舟の模型(右)。霞ヶ浦の水運に重要な役割を果たしました |
土屋家の三石紋のついた陣羽織と甲冑。右は博物館脇にあった、「従是南土浦領」と刻まれた境界石 |
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-2020.11.15- |
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6月の予定だった一級の試験はコロナ騒ぎで延期され、11月に市ヶ谷の二松学舎大で行われました。 |
二松学舎大学はキャンパスがあちこちに分散していてわかりにくいこと!入り口には手指消毒用アルコール。 |
試験場の向いは靖国神社。紅葉が綺麗です。下の写真は地下鉄構内壁面のタイル画 |
試験結果が届きました。 70点で合格なのですが、私は69点。あと一歩でした |
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-2021.6.13-再受験 |
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身内の不幸にもめげず、挑戦しました |
今回の試験場は王子の中央工学校 |
手指の消毒をして会場に入ります |
明らかに勉強不足なので神頼み |
やはり不合格でした。昨年より3点下でした |
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-パシフィコ横浜ノース- |
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今まで城郭検定協会から何度もお知らせを貰っていましたが何となく行ったことがなかった「お城EXPO」 |
いいお天気。パシフィコ横浜ノース中庭には大きな忍城バルーンが。 |
日本各地のお城のブースが出ていて、各城郭の紹介、現地のパンフレットや関連グッズがありました |
↑は「NPO江戸城天守を再建する会」のブース。署名してきました。折角天守台もあるんだから |
そして歴史小説家伊東潤氏の「西南戦争と城郭攻防戦」という講演を聴きました。面白かった。 |
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駿府城(静岡県静岡市)-2022.1.3- |
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JR静岡駅から徒歩10分ほどで美しい石垣と堀が見えてきます。駿府城は家康公が没したお城です |
東御門、巽櫓、坤櫓などは通常は見学できますが、1月3日は閉鎖中。百名城スタンプもお休み |
天守台発掘調査中。作業現場をアクリル板越しに見学できます。現場のむこうに美しい富士の姿が。 |
秀忠公に将軍を譲り、駿府城に入って大御所として政治を動かしていた家康公晩年の像 |
家康公お手植えの蜜柑の木が残っています。まだ実をつけていました。 |
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浜松城(静岡県浜松市)-2022.1.3- |
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若き日の家康公が戦の拠点とした浜松城。国道から天守曲輪の石垣と美しい天守が見えます。この手前にあるのが鎧かけの松 |
三方ヶ原の戦いに敗れて逃げ帰ってきた家康公は鎧を脱ぎ、↑の松にかけてひと休みしたそうです |
郭の様子は発掘調査で徐々に明らかになっています
この野面積の石垣は400年前築城の面影を残す貴重な石積みです。 |
1階は下見板張、2階以上は漆喰の美しい天守は昭和33年に建てられた復興天守。元の姿は資料がなく良くわかっていません。中に入ることができます |
もとは引馬城と呼ばれていましたが今川氏滅亡後家康公が入り浜松城と改められました。江戸時代は老中を輩出し出世城と呼ばれました |
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掛川城(静岡県掛川市)-2022.1.3- |
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初めは今川氏駿河支配の拠点。後に武田氏に追われ立て籠もった今川氏真を家康が攻めて開城させた城です。 |
天守は安政東海地震で倒壊し平成に復元された物ですが、御殿は文久の建造です。玄関の屋根は珍しい起(むく)り破風。 |
現存城郭御殿は川越城、二条城、高知城とここの4つだけ しかありません。静岡藩時代は学問所として使われました |
高天神城をめぐる戦で徳川勢が掛川城を攻めたとき、霧を吹きだして城を守ったという「霧吹き井戸」。同じ伝説は川越にも。 |
↑本当に三日月の形の三日月堀。正保城絵図に描かれている登城路や複数の堀が発掘により明らかになり復元されています |
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岡崎城(愛知県岡崎市)-2022.1.4- |
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神君出生の城岡崎城。築城は15世紀西郷氏。1531年家康の祖父松平清康がこの地に移し岡崎城と称しました |
家康公(竹千代)はここで誕生し人質として城を離れますが、桶狭間の戦での今川義元の戦死を期に岡崎に戻ります。 |
城は明治の廃城令で取り壊され、本丸埋門北袖石垣(↑)等が僅かに残りました。昭和34年昔の姿で天守が復興しました |
岡崎公園内の壮年の家康像はとても立派です。 |
敷地内の「三河武士のやかた家康館」では源氏・足利氏~松平一族~家康公の生涯を辿り三河武士の歴史を学べます。特別展は岡崎時代の家康公と家臣達について。右はからくり時計 |
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名古屋城(愛知県名古屋市)-2022.1.4- |
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公共交通機関を使うなら、地下鉄名城線。市役所駅7番出口に出ます。なんとここには高麗門(?)があります |
金の鯱を頂く5層7階の大天守に小天守を従えた名古屋城天守は優美で立派。家康公の9男義直公の為に建造されました |
1月2日~10日東南隅櫓内部が特別公開されていました。入館人数制限のため数十分並んで待つ必要があります |
東南隅櫓は軒唐破風と千鳥破風を重ねた美しい櫓。戦災で焼けなかったので外観も内部も400年前建造当時のままです |
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各地の大名に築城を命じて造らせた天下普請。天守石垣を担当した加藤清正は巨石を運ばせる時石に乗って音頭をとったと伝えられます |
本丸御殿は昭和20年空襲で焼失しました。平成4年年に障壁画の模写が始まり、平成21年から復元開始。平成30年に全面公開されました。 |
現代の絵師達が狩野派の技術を研究。習得し、障壁画を復元しました。先ず客の大名が案内される表書院の障壁画も豪華賢覧なのですが |
さらに進んで対面所の座敷になると、同様に豪華な障壁画の周囲の柱が漆塗りとなり床の間も漆。廊下も狩野派の絵で彩られています。 |
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さらに奥に進み将軍を迎える建物である上洛殿になると装飾も各段に異なります。上は書院の釘隠し、下は上洛殿のものです |
左は対面所の欄間、書院のものより手が込んだ美しい透かし彫り。しかしさらに奥の上洛殿の欄間(右)は立体的で彩色された透かし彫りでした。櫓見学に並んでいた時に誘導係さん曰く「奥に進むにつれて釘隠しや欄間が豪華になる、度肝を抜かれます」 |
天井も違います。上洛殿は格(ごう)天井。下段の間は折り上げ格天井、上段まで進むと将軍の座は二重折り上げ格天井 |
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菅谷館Ⅱ (埼玉県嵐山町) -2022.1.30- |
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菅谷城の中世に描かれた絵図は見つかっていません。↑は寛文12(1672)のもの。郭の名前等は書かれていません |
左の小さな土塁は向こう側の西ノ郭から手前の三ノ郭が見えないように遮るのが目的です。「蔀(しとみ)土塁と呼ばれます |
三ノ郭は西ノ郭より1m高く盛土して木橋に傾斜をつけられるようになっています。堀の柱跡をもとに木橋を復元してあります |
本郭跡周囲の土塁の一部切れたようになっている部は郭の出入口である生門跡とパンフの説明。しかし向こう側は断崖絶壁です。 |
本郭を取り巻く土塁の一部は枡形に飛び出ています。出枡形土塁。ここから横矢を仕掛けて郭を守ります。 |
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山田城(埼玉県滑川町・武蔵丘陵森林公園内)-2022.2.6- |
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山田城址は武蔵丘陵森林公園の中にあります。築城年代は不明ですが、忍の成田氏の被官小高氏贄田氏らが居住し、豊臣の北条攻めの際に陥落したと推定されます。 |
少し高くなった↑の階段の上に城址の看板のある平地があり、周囲を堀が囲んでいます。 |
空堀は比較的はっきり残っていました |
平地(本郭?)の周囲は高さ1mほどの土塁が、これもはっきり残っています |
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弘前城 (青森県弘前市)-2022.4.24- |
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外濠沿いの桜は散り始めており、一面の花筏が美しい |
天守は天守台石垣修復の為、曳家工法で仮天守台に移されています |
仮天守台は本丸の御金蔵跡のエリアです。 |
東内門。両側は土塁です。周囲は満開の桜 |
修復中の石垣を見学する事ができます。完了は令和7年の予定 |
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関東以北でただひとつの現存天守です。内部は随所に補強金具 |
天守最上階からは桜に彩られた美しい岩木山を見ることができます |
三の丸丑寅櫓。弘前城は天守の他に3基の三重櫓があります |
本丸井戸跡の石製の井戸枠。一辺136cm高さ71cm穴の直径は95cm |
左は烏賊の形をした「いかすみ石」右は100年前の修理の際の刻字石 |
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五稜郭 (北海道函館市)-2022.4.25- |
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五稜郭は何といっても俯瞰でなければ形がわかりません。五稜郭タワーでこの西洋式城郭を確認します。折しも桜の時期 |
設計は蘭学者武田斐三郎。元治元年箱館奉行所となったもののまもなく徳川幕府は瓦解し戊辰戦争に突入します |
明治政府に従わず「蝦夷共和国」設立のため榎本武揚はここを本拠とするも新政府軍の猛攻に幕軍は敗れます |
明治2年5月五稜郭から討って出た新選組副長土方歳三は函館駅近くの一本木関門で戦死したと伝わります。(↑) |
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松前城(福山城) (北海道松前町)-2022.4.26- |
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安政元年外国船に備えて築かれた松前城。約50年かけて鎌倉翁が多品種の桜を育てました |
明治の廃城令で殆どの建物は解体されました。唯一残っているのは天守の左の本丸御門です |
天神坂門とそのそばにある夫婦桜。濃淡のピンクの花が仲睦まじく咲いています。 |
公園内に多く残る古刹。
↑は光善寺山門。この奥に記念保護樹木の「血脈桜」があります |
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-2022.6.12-3度目の挑戦 |
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今年の東京会場は高田馬場の早稲田ゼミナール。あいにくの雨模様 |
第20回。
キリの良いこの回で合格したいもの |
難しかった~、と落ち込み気味で帰宅したら埼玉は五月晴れ |
自己採点ではギリギリ合格だったのですが 1点足りないという通知 |
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赤穂城(兵庫県赤穂市)-2022.8.17- |
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播州赤穂駅では早速忠臣蔵の額。階段の壁には錦絵の四十七士が。 |
駅からお城通りを真っすぐ進むとお堀と大手隅櫓が現れます |
大手門 |
大手門の枡形は右折→左折→左折→左折、とややこしい |
復元された本丸門 |
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本丸庭園と天守台。 |
美しい歴史博物館に是非入りたかったのですが、この日は休館日でした |
大正元年城内に立てられた大石神社。四十七士の石像等もあります |
赤穂は堀井戸は塩水なので早くから熊見川の水から上水道が作られました。今でも赤穂の水は美味 |
江戸から早飛脚で駆けつけた早水・菅野が水を飲んだ「息継ぎ井戸」 |
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姫路城(兵庫県姫路市)-2022.8.18- |
弘前城~松前城旅行でお友達になった方から、今年8月31日まで東小天守、乾小天守、イ、ロ、ハの渡櫓が特別公開だから一緒に行きましょうと誘われて姫路城中心の計画。でも赤穂城や明石城も、と欲張ったので姫路城見学には時間が足りませんでした。 |
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入場口から入り、三国堀から見上げる大天守と小天守群。美しい。 |
にの門(櫓門)破風の十字紋の鬼瓦 |
い~にの門を過ぎ、大天守に向かう通路はまるで迷路。↑水二の門(棟門) |
水三の門は埋門。この枡形に、水を流すとダムのようになるらしい |
水五の門は櫓門。がっちりした鉄製の城門です。いよいよ大天守へ。 |
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天守最上階の刑部(おさかべ)神社。美しい姫と勇敢な侍との恋物語「天守物語」(泉鏡花)にも出てくる妖怪を鎮める神社 |
天守の地下から最上階まで通っている太い一本柱。↑は東大柱 |
特別公開の東小天守内部。武者だまりや武者の通り道となる中二階、武器庫に通じる扉などがありました。 |
大天守と小天守を繋ぐ渡櫓。↑はロの渡櫓、2階建てで幅5.9m東西28.8m。床板はのみ跡から築城当時のものとわかります |
日が当たらない部分の屋根瓦の漆喰はまだ白いまま。丸瓦の下の滴水瓦が屋根のラインをレース模様の様に縁取ります |
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家康公の孫である 千姫が本多忠政に再嫁した時、千姫だけのために作られた化粧櫓。常時見学可能です |
化粧櫓までの百閒廊下は女中たちの長局のある渡櫓です。 |
化粧櫓から見た百閒廊下外観。中央に見えるのはルの櫓です。 |
番町皿屋敷のお芝居で知られる「お菊の井戸」。皿一枚で命を失った哀れなお菊さんの幽霊は播州のこの井戸に出た? |
この近くで育ったというタクシードライバーが北側からの姫路城は美しいですよと姫山公園側にも回ってくれました。 |
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明石城(兵庫県明石市)-2022.8.18- |
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元和4年西国諸藩への備えに小笠原氏に明石築城が命じられ、本丸御殿と天守台、四隅に櫓が築かれましたが天守はありません |
現在は巽櫓と坤櫓とそれを繋ぐ石垣が残されています。坤櫓は一国一城令で廃城となった伏見城から移築されたものと伝わります |
↑は小笠原候の命で当時仕えていた宮本武蔵が作庭した本丸庭園。宮本武蔵は武芸だけでなく、書画や作庭も行いました |
巽櫓越しに明石海峡大橋と瀬戸内の海が見えます。二つの櫓は新幹線の車窓からも明石駅のホームからもよく見えます。 |
周囲にスタジアムやテニスコートを備えた明石公園はお城とともに市民の憩いの場となっています |
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二連木城(愛知県豊橋市)-2022.8.19- |
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二連木城は15世紀末、戸田氏により築城。戸田宗家は今川氏に滅ぼされ、二連木戸田氏は徳川配下となりました。 |
徳川氏の関東移封に伴い戸田氏も深谷に移り二連木城は廃城となりました。 ↑は浅野文庫諸国古城之図より「三河渥美二連木」 |
本丸と思われる郭の「二連木城址」の石碑。城址主要部は大口公園となり、周囲は保育園や老人センターがある住宅地です |
東側の平地の公園に降りる階段は竪堀跡に見えます。住宅地の真ん中にこのような土塁や堀が残っています。 |
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吉田城 (愛知県豊橋市)-2022.8.19- |
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築城は牧野古白、近世城郭として整備したのは池田輝政。吉田城址の石碑のある一角は現在石垣修復中です。 |
明治期に焼失しその後陸軍歩兵第18連隊が置かれた。戦後は豊橋公園となり、昭和29年鉄(くろがね)櫓が復興建築されました |
吉田城と城下町を学ぶ歴史資料館となっています。↑は明治期、豊川対岸からの吉田城鉄櫓。 |
吉田城模型。豊川に突き出すように、天守替わりの鉄櫓がそびえ、9基の櫓が建っています。 |
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江戸時代は東海道の宿場町として、また、伊勢航路の湊町、水運陸運の重要拠点でした |
広重の東海道五十三次吉田宿には、豊川と鉄櫓が描かれています。 |
着到櫓台跡。敷地内には本丸井戸跡、金柑丸跡、武器櫓跡、裏門跡なども |
豊橋は手筒花火の町。消火栓には花火を抱える若い衆の絵が。 |
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二俣城(静岡県浜松市)-2022.8.19- |
二俣城はもともとは今川氏の拠点、今川氏滅亡後は徳川の城となりました。二俣の地は天竜川と二俣川の合流地点であり、信濃に抜ける街道、浜名湖への道、東海道にも近いということで交通の要衝でもあります。また、ここは家康公の長男松平信康が幽閉され、最期を迎えた城でもあります。武田方に内通していると織田信長に疑われた21歳の信康は、生母築山殿が殺されたのち、父家康から切腹を命じられました。介錯の服部半蔵は涙のあまり刀を振り下ろすことができなかったというエピソードが残ります。 |
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天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から歩きます。二俣本町は無人駅でした |
城址入り口の看板から坂、本丸へは城山神社を経由する階段を上ります |
天守台と本丸と思われる郭は草に覆われ、堀や土塁もはっきりしません |
本丸周辺は木が茂り、辛うじて隙間から天竜川が覗きます。 |
天浜線が陸橋を渡るときは雄大な天竜川と飛竜大橋が見えました |
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小金城 (千葉県松戸市)-2022.12.4- |
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小金城を築いたのは千葉氏の陪臣高城胤吉。その後北条氏に従うことで3代にわたり繫栄しましたが秀吉の小田原攻めで徳川の城となり、家康5男の幼い信吉が城主となりました。信吉は佐倉に移り、廃城となりました。 |
現在残っている遺構は堀と土塁、虎口、何らかの建物があったと思われる柱台など |
発掘調査が行われた際の畝堀や障子堀の写真が説明版に載っていました |
1960年代までは郭などの遺構もありましたが、周辺の宅地開発で消失したようです |
城跡の丘の周囲を歩くと、年代は不明ですが大きな自然石の石垣がありました |
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前ヶ崎城(千葉県流山市)-2022.12.4- |
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前ヶ崎城は現在の流山市に保存されている城跡。この丘の上に郭跡があります |
小金城を本拠とする高城氏の支城として機能していたと考えられます。 |
案内板の茶色い部分が現在残っている城跡。ところどころに空堀も残っています |
低くはなっていますが土塁跡も見て取れます |
根木内城(千葉県松戸市)-2022.12.4- |
名都借城 (流山市) |
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15c中期高城氏築城。小金城の東を守る支城として機能したと思われます |
小金城以前に高城氏が本拠にしていた城。郭、土塁、空堀などが復元され、根木内歴史公園となっています。 |
郭内に復元された物見台。周囲の樹木が茂っていなければ見通しが良いはず |
名都借城は広寿寺裏手に郭跡が残るのみ。合戦の記録はあるものの築城主等詳細は不明 |
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長篠城(愛知県新城市) -2023.1.4- |
長篠城と長篠・設楽原の戦いについては夢見る獏さんのブログ「気ままに江戸♪」に詳しいです |
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長篠城址は飯田線長篠城駅からすぐ。本丸跡には歴史資料館がたち、土塁跡などが残っています |
↑は長篠城想像図。宇連川と豊川合流点に野牛郭が突き出し、主郭背後に守備の郭が並びます |
主郭周囲は切り立った断崖。城攻めの為に武田軍が置いた5つの砦が見えます。三角の山はその1つ鳶ヶ巣山 |
籠城中、織田支援要請の帰路武田に捕まり、寝返ると見せて「援軍が来る」と叫び磔になった鳥居強右衛門 |
想像図最左にある弾正郭は、長篠城駅の隣鳥居駅に向かう途中にあります。城郭の広さが分かります |
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高天神城(静岡県掛川市) -2023.1.5- |
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北側搦め手口から高天神社の鳥居をくぐり、急な石段を登り主郭のある尾根へ向かいました |
鐘郭の手前には三日月井戸。南北とも尾根の斜面には湧水がいくつか見られ、池もありました |
↑紫線で囲ったのが北の搦手口、水色が三日月井戸、赤線で囲ったのが本丸。尾根全体が城となっています |
本丸跡。周囲に沢山の郭があり、谷沿いに受ける攻撃を防御、高天神攻めの砦も上からよく見えました |
第一次高天神戦では城主以下、勝者武田側の配下に入りましたが大河内政局は従わずこの石窟に幽閉7年 |
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松山城(愛媛県松山市)-2023.3.16- |
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麓からリフトで山頂の本檀に向かいます。 |
現存12天守のひとつ。左は二の門南櫓 |
隠門。思わぬ方向から攻撃を受けます |
天守からの眺望。 |
現存の野原櫓。21もの重要文化財が。 |
麓には築城主加藤義明の騎馬像 |
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湯築城(愛媛県松山市)-2023.3.16- |
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湯築城址は室町期以降この地を治めた河野氏の館跡 |
秀吉の四国平定で城は福島氏の手に渡りその後廃城 |
遺構は堀と土塁。当時の土塁が残っています |
土塁断面を見せる展示室があります。上はその説明図 |
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今治城(愛媛県今治市)-2023.3.16- |
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築城の名手藤堂高虎が築いた今治城は美しい層塔型の天守 |
鉄(くろがね)御門が復元されています |
築城奉行の名がついた 今治城最大の勘兵衛石 |
↑ 武具櫓。天守と3つの櫓が木造で再建されています |
瀬戸内海に面した砂地に建てられています |
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大洲城(愛媛県大洲市)-2023.3.17- |
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大洲城天守は高欄櫓(左)台所櫓(右)を従える連立式 |
↑天守からの高欄櫓。櫓は安政のもの。天守は平成再建 |
南隅櫓は天守連立ではなく「お殿様公園」にあります |
南隅櫓の内部。下部が膨れた「太鼓壁」 |
苧綿櫓。石落としに窓があるのは戦いを想定しないから |
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宇和島城(愛媛県宇和島市)-2023.3.17- |
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宇和島城の縄張りは五角形。四角のつもりで攻めると思わぬ反撃を受けます |
北側登城口から井戸丸までは急で長い石段を上ります |
慶長の天守は藤堂高虎のもの。現在の天守は寛永年間伊達宗利が建てたもの |
正面は唐破風、比翼の千鳥破風や反った屋根のラインが美しい現存天守です |
南側登城口の上り立ち門は現存する薬医門としては恐らく最古で最大のもの |
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高知城(高知県高知市)-2023.3.17- |
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長曾我部滅亡後土佐に入った山内一豊が高知城を建てました。↑は櫓を乗せた追手門 。 |
一豊公の銅像もありますが、何といっても有名な「山内一豊の妻」千代の像↑ |
連結した御殿から天守に入る珍しい形です。現存天守のうち、完全な形で残っているのは高知城のみです |
御殿内部。現存の御殿があるのは二条城川越城、掛川城、高知城の4城のみです。 |
享保年間に焼失した天守は初代一豊公が築城したのと同じ望楼型で再建されました。豪華な黒漆の高欄 |
内部に雨水が溜まると 石垣は崩れてしまいます。雨の多い高知。石垣に水抜きの石樋がありました |
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丸亀城 (香川県丸亀市)-2023.3.18- |
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高松城に生駒氏が本拠を移すまでは讃岐の中心でした。↑は大手二の門と櫓門(一の門)と天守。 |
生駒騒動の後は京極氏が入り現在の丸亀城を築城。扇の勾配の高石垣で知られています。 |
天守は床面積こそ現存天守最小ですが、唐破風で飾られたバランスのいい姿です |
本丸からの眺望。東側に見える飯野山は讃岐富士と呼ばれる美しいフォルム。 |
二の丸井戸は65mと日本一深い井戸。易々と石垣を上って見せた職人を謀殺するのに使った?井戸。 |
寛文年間に檜で作られた城模型。城絵図と共に幕府に提出したもの。現在残っているのは丸亀城のみ |
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高松城 (香川県高松市)-2023.3.18- |
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海城高松城。柿本人麻呂が讃岐を「玉藻よし」と詠んだことから別名玉藻城。昨年桜御門が復元されました |
艮櫓↑はもと東の丸丑寅(北東)隅にありましたが県民ホール建築に伴い南東隅に移築されました |
明治17年に取り壊された天守は最上階が下部より大きい「南蛮造り」と言われる珍しい形。↑はその模型 |
再建された天守台。堀は海水を入れているので鯛など海の魚が泳いでいます。汐入の城堀はここだけです |
本丸と二の丸をつなぐ鞘橋。もとは屋根のない欄干橋でしたが江戸中期にこのような廊下橋に。 |
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徳島城 (徳島県徳島市)-2023.3.18- |
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徳島城は秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政が建てました。 |
初代天守は元和年間に壊され、その後東二の丸に建てられました |
特徴は何といっても石垣。有名な「阿波の青石」が使われています |
建物は現存していません。郭跡や櫓台のみ残ります。 |
旧徳島城表御殿庭園は国指定名勝に指定されています。 |
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杉本城 (神奈川県鎌倉市)-2023.4.13- |
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住宅地の間の急坂を上ると上のような高台があります。切岸かも。 |
↑人の手による溝があり、竪堀のようにも見えます |
ただ、曲輪跡のような平たい地形は見られませんでした |
隣接する杉本寺は主郭にあるのかも。この後ろが山城か? |
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松代城(長野県松代市)-2023.7.16- |
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太鼓門前橋は修理中で取り外されていました。橋を落として敵の侵入を防ぐ時の形(?) |
迂回して城跡に入れます。城内側からの太鼓門。平成に復元されたものです |
整備された戌亥櫓台に上ることができます。右上に見える三角の山は飯縄山 |
平成6年の発掘調査で松代城三の堀はここから始まっていたことが判明しました |
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上田城(長野県上田市)-2023.7.16- |
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平成6年に櫓門と南北二つの櫓が復元されました。内部を見学することができます |
櫓門の内部に鉄砲が置いてあります。窓から侵入者を狙う子供たち |
西櫓は寛永年間に千石氏によって建てられたものが現存しています。 |
真田信之が松代に移封される時持っていこうとしたが微動だにしなかったという真田石 |
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小諸城(懐古園)(長野県小諸市)-2023.7.16- |
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三の門から入ると、関ケ原合戦の際小諸城に本陣を置いた秀忠が腰を掛けた「秀忠公憩石」があります |
二の丸の石垣には若山牧水の「かたはらに秋くさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな」の歌 |
本丸の天守台跡。建物の遺構はありませんが、石垣や曲輪跡は多く残っています |
小諸城築城にあたり、山本勘助が常に己の顔を映し反省する為に愛用したと伝えられる「鏡石」 |
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松本城(長野県松本市)-2023.7.17- |
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もとは小笠原氏が築いた深志城。現存12天守、そして国宝の城は関東以北では松本城のみです。 |
現在の松本城は秀吉の命で石川数正が建てたもの。上は平成11年復元の太鼓門桝形の二の門高麗門 |
上の大きな石は「玄蕃石」。数正の子玄蕃頭康長が、この石を運ぶのに文句を言った者を成敗したことから |
本丸に入る正門は昭和35年に復元された黒門。櫓門は昭和35年二の門と袖塀は平成2年復元されました |
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この右側に松本城天守見学の券売所があります。休日は特に混雑して数十分待ちます |
右に乾小天守、左に辰巳櫓と月見櫓を従えた複合天守はどこから見ても美しい |
月見櫓は周囲の舞良戸を外すと北東南三方が吹き抜けの明るい空間になります。 |
月見の宴は西南に突き出た形の月見櫓で。天井は船底型、高欄は朱塗りです |
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高島城(長野県諏訪市)-2023.7.17- |
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上諏訪駅から風情ある城下町を歩き、冠木橋を渡って城内へ。角櫓が見えます |
冠木門をくぐり、今は諏訪市民の憩いの場、藤や桜の名所高島城址公園へ。 |
昭和45年に復興された天守からは、諏訪湖や北アルプスが眺望できます |
日根野高吉築城の高島城は諏訪湖に浮かぶように見え、「浮き城」と呼ばれました |
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雁田城(長野県小布施町) -2023.8.20- |
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北斎の天井絵で有名な岩松院の背後の尾根沿いに麓の小城と主郭の大城があります |
築城時期、築城主共に不明。戦国期に支配していた高梨氏は武田氏に滅ぼされ、武田氏滅亡後にこの地に入った上杉氏により石垣や曲輪が整備されたと考えられます |
はっきりはしませんが、曲輪らしき平地や土盛り、石積みがところどころに見られました |
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今帰仁城(沖縄県今帰仁村)-2024.3.7- |
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今帰仁の城壁に使われている石灰岩は2億3000万年前の堆積層のもの。 |
外郭にある土盛りは舟を型どったもので海神祭のレコーラウーニ(舟漕ぎ)を行います |
北側最上段から女官の部屋があったという「御内原(うーちばる)」右は断崖絶壁 |
グスクには必ず、聖なる場所「御嶽(うたき)」があります。これは御内原にある「イベ」 |
目の前でさとうきびを絞る機械を使ってジュースを作って貰います。60cmほどで2杯 |
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首里城修復中(沖縄県那覇市)-2024.3.8- |
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2019.10.31、首里城正殿から出火し御庭に面した9棟が焼け落ちました。原因は漏電とのこと。ニュース映像はショックでした |
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上の建物の中には修理中の部材が |
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今急ピッチで修復が進んでいます。赤い瓦は沖縄の住宅の屋根の象徴。焼け落ちた瓦を砕いて使う等、貴重な赤瓦です |
上の写真にある、屋根の上の龍も火災で落下し、粉々になりました。各部分の欠片が展示されていました(→) |
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福岡城(福岡県福岡市)-2024.3.9- |
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福岡城は関ケ原の戦の功績で筑前52万石を与えられた黒田官兵衛、長政親子が慶長6年から7年かけて築城しました |
41万㎡の広大な内郭は堀に囲まれ、47もの櫓と10の御門がありました。上は平成20年復元された下の橋御門の桝形 |
天守は築かれなかったという定説を覆す文献が見つかり、今年4月に「幻の天守ライトアップイベント」が企画されています |
江戸時代の遺構建築としては桐の木坂御門南の多門櫓が残っています。総延長は72m。両端に二層の櫓があります |
松の木坂御門跡には紅梅が咲いていました。ここから東御門跡に向かうと旧平和台球場や鴻臚館跡展示館があります |
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久留米城(福岡県久留米市)-2024.3.9- |
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久留米城は有馬氏が丹波福知山から移封されて入城し居城としました。現在は篠山神社の境内です |
小高い丘陵の上に建つ平山城。2層と3層の7つの櫓がありました。上は艮(うしとら)櫓跡 |
北西を流れる筑後川は天然の要害でした。上は乾櫓から見下ろす筑後川 |
立派な石垣が残っています。月見櫓跡の石垣と、隣接する久留米医大のグラウンド |
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柳川城(福岡県柳川市)-2024.3.9- |
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創建は永禄年間蒲池氏。その後立花宗茂、田中吉政らに寄って城と城下町が整備されました。 |
元和2年からは再び立花氏の居城となりましたが明治5年焼失、払下げられ、現在は柳川高校の一部です |
近くに立花邸屋敷跡である「御花」があり、庭園、各種施設や立花家資料館が整備されています |
柳川といえば風情のある柳並木の土手や川下りの舟が有名です。掘割も舟に乗れます。 |
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熊本城(熊本県熊本市)-2024.3.10- |
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熊本城の天守は市内のメインストリートからよく見えます。天守の再建はだから熊本再建のシンボルです |
しかし城郭内の多くの建物や石垣はまだ修復中なので、↑稲荷神社横のルートは使えず、迂回が必要です |
小天守を従えた大天守は実に堂々としています。天守に入ることができます。外人観光客多数 |
天守内には加藤、細川の施政の展示。最上階では熊本の街並みと阿蘇山系を眺めることができます |
2018年の熊本地震の復興資金を寄付した時の「城主」証 |
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多くの石垣の修復はまだ続きます。一度崩して積みなおすのでとても時間がかかります |
「がまだせ!熊本」のくまモンだるま。くまモンに言われるとつい寄付したくなる |
坪井川に面した長塀は242mと日本一。地震で一部倒壊しましたが修復済み |
築城の名手、特に石垣については加藤清正は名人です。行幸橋たもとの清正公像 |
熊本空港行のシャトルバスにはくまモン |
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苗木城(岐阜県中津川市)-2024.4.17- |
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時代によって色々な積み方の石垣。風吹門手前は谷積み |
大櫓は大きな自然石の上に打込接の石垣が積まれています |
笠置矢倉も大石の上。ここに向かう石垣は切込接でした |
天守の周囲は野面積。ここに展望台が組まれています |
天守展望台から。木曽川と恵那山、中津川の街一望の絶景 |
築城は遠山氏。↑は遠山資料館 |
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岩村城(岐阜県恵那市)-2024.4.18- |
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埋門跡。門柱の礎石も残っています。ここは自然石の野面積の石垣が多いです |
本丸跡。岩村城の女城主だったおつやの物語が流れます。\100 |
これは圧巻!六段壁と呼ばれる段々の連なる見事な石垣です。 |
「霧の井」。蛇骨を投げ込んだところ、霧が城を包み攻撃を防いだという |
城主邸跡には岩村歴史資料館のほか、太鼓櫓や藩校の門が復元されています |
儒学者佐藤一斎は岩村の出身です |
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