小江戸川越探訪 :私が計画を立てて江戸検同期のお仲間をガイドしました -2024.10.27- |
本川越駅ー喜多院ーうな重の昼食ー時の鐘ー川越城本丸御殿ー川越城中ノ門跡ー大沢家住宅ー蔵造り一番街ー観光物産館蔵里
(喜多院内で見学した所は:どろぼう橋・仙波東照宮・慈眼堂・歴代住職の墓所と暦応の古碑・慈恵堂(喜多院本堂)・松平大和守墓所・多宝塔・書院と客殿・五百羅漢・鐘楼門・山門) |
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まずは喜多院。「どろぼう橋」から入ります。境内は幕府寺社奉行の管轄。ここに逃げ込めば捕まらないのでこの橋は泥棒がよく渡ったのです |
元和2年家康公の遺体が久能山から日光に移される途中、喜多院で天海僧正による4日間の法要が行われ、境内に東照宮が作られました |
徳川3代に仕え108歳で没したという天海僧正を祀った慈眼堂。内部には死の2か月前に作られたという天海の木像が安置されています |
慈眼堂横は歴代住職の墓所。ひときわ大きい天海僧正の墓石(左)。右は暦応5年(1342)造立「暦応(りゃくおう)の古碑」 |
本堂は慈恵大師(元三大師とも)、開山慈覚大師、中興尊海僧正を祀る慈恵堂。「潮音殿」の額は耳を澄ますと潮の音が聞こえるという逸話から |
慈恵堂の西側に、明和4年から慶応2年まで川越藩主だった松平大和守家の墓所があります。7代100年間に死去した5人の藩主が葬られました |
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寛永15年の大火で喜多院が焼失した時、家光が江戸城の部材を送り建物再建を助けたので、家光誕生の間や春日局化粧の間が残ります |
川越北田島の内田善右衛門(志誠・しじょう)が、天明2年発願して五百羅漢彫刻開始。遺志は引き継がれ、文政8年現在の538体となりました |
山門と↑の鐘楼門は焼失を免れた慶長期の建造物です。鐘楼門の鷹の彫刻は左甚五郎作と伝えられ、そのリアルさに鳩も近づかないとか |
喜多院を出て蔵造りの街並みの一番街にある「傳米」でうな重をいただきました。店も通りも人と車でいっぱい |
昼食後は川越のシンボル、時の鐘の通りを東へ。「ウォーターボーイズ」のモデル名門川越高校を通って川越城本丸御殿へ |
江戸期建造の本丸御殿が残るのはここと高知城のみ。貴重な建造物ですが、戦後の一時期学校として使われていました |
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廊下や大広間が中学校の雨天体操場だった時の痕跡が、天井のボール跡として残っています。↑の写真は家老の間に置かれた人形 |
本丸御殿から札ノ辻に向かう途中にある復元された中ノ門跡と中ノ門堀。本丸側(左)の斜面は急です。松平信綱が作ったと言われています |
明治26年の川越大火で街の3分の1が焼けた時、↑大沢家のみは蔵造りだった店と住居が無事でした。以後、この通りは蔵造りの街並みに |
大正7年、第八十五銀行本店として建てられ平成31年まで埼玉りそな銀行として使われていた↑の建物は今年観光施設「小江戸テラス」となりました |
一番街から大正ロマン通りを南下し川越駅方面に向かう途中、旧鏡山酒造の蔵を利用した観光物産館「蔵里」があります。川越土産がたくさん |
1万6千歩も歩きました。蔵里のカフェで、コーヒーブレイク。↑はスイートポテトのような食感のさつまいもプリン。 |