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小江戸川越探訪 2024.10.27 |
本川越駅ー喜多院ーうな重の昼食ー時の鐘ー川越城本丸御殿ー川越城中ノ門跡ー大沢家住宅ー蔵造り一番街ー観光物産館蔵里
(喜多院内:どろぼう橋・仙波東照宮・慈眼堂・歴代住職の墓所と暦応の古碑・慈恵堂(喜多院本堂)・松平大和守墓所・多宝塔・書院と客殿・五百羅漢・鐘楼門・山門) |
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まずは喜多院。「どろぼう橋」から入ります。境内は幕府寺社奉行の管轄。ここに逃げ込めば捕まらないのでこの橋は泥棒がよく渡ったのです |
元和2年家康公の遺体が久能山から日光に移される途中、喜多院で天海僧正による4日間の法要が行われ、境内に東照宮が作られました |
徳川3代に仕え108歳で没したという天海僧正を祀った慈眼堂。内部には死の2か月前に作られたという天海の木像が安置されています |
慈眼堂横は歴代住職の墓所。ひときわ大きい天海僧正の墓石(左)。右は暦応5年(1342)造立「暦応(りゃくおう)の古碑」 |
本堂は慈恵大師(元三大師とも)、開山慈覚大師、中興尊海僧正を祀る慈恵堂。「潮音殿」の額は耳を澄ますと潮の音が聞こえるという逸話から |
慈恵堂の西側に、明和4年から慶応2年まで川越藩主だった松平大和守家の墓所があります。7代100年間に死去した5人の藩主が葬られました |
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寛永15年の大火で喜多院が焼失した時、家光が江戸城の部材を送り建物再建を助けたので、家光誕生の間や春日局化粧の間が残ります |
川越北田島の内田善右衛門(志誠・しじょう)が、天明2年発願して五百羅漢彫刻開始。遺志は引き継がれ、文政8年現在の538体となりました |
山門と↑の鐘楼門は焼失を免れた慶長期の建造物です。鐘楼門の鷹の彫刻は左甚五郎作と伝えられ、そのリアルさに鳩も近づかないとか |
喜多院を出て蔵造りの街並みの一番街にある「傳米」でうな重をいただきました。店も通りも人と車でいっぱい |
昼食後は川越のシンボル、時の鐘の通りを東へ。「ウォーターボーイズ」のモデル名門川越高校を通って川越城本丸御殿へ |
江戸期建造の本丸御殿が残るのはここと高知城のみ。貴重な建造物ですが、戦後の一時期学校として使われていました |
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廊下や大広間が中学校の雨天体操場だった時の痕跡が、天井のボール跡として残っています。↑の写真は家老の間に置かれた人形 |
本丸御殿から札ノ辻に向かう途中にある復元された中ノ門跡と中ノ門堀。本丸側(左)の斜面は急です。松平信綱が作ったと言われています |
明治26年の川越大火で街の3分の1が焼けた時、↑大沢家のみは蔵造りだった店と住居が無事でした。以後、この通りは蔵造りの街並みに |
大正7年、第八十五銀行本店として建てられ平成31年まで埼玉りそな銀行として使われていた↑の建物は今年観光施設「小江戸テラス」となりました |
一番街から大正ロマン通りを南下し川越駅方面に向かう途中、旧鏡山酒造の蔵を利用した観光物産館「蔵里」があります。川越土産がたくさん |
1万6千歩も歩きました。蔵里のカフェで、コーヒーブレイク。↑はスイートポテトのような食感のさつまいもプリン。 |
「小江戸の名所」という川越紹介ページもございます |
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城下町岩槻探訪2024.4.28 |
岩槻駅―龍門寺―浄安寺―時の鐘―岩槻城址公園―市民会館いわつき―にぎわい交流館と岩槻人形博物館 ―藩校・遷喬館 |
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岩槻駅のステンドグラスはお城や時の鐘、遷喬館 |
まず岩槻藩主大岡家の菩提寺、龍門禅寺へ。 (以前岩槻を散歩した時は行きそこないました)。 |
九代将軍家重公の言葉を聞き取れた唯一の人大岡忠光。お小姓から側用人→大名になった彼の立派な墓 |
家康公六男の忠輝が改易された後その子徳松と生母竹の局は岩槻藩お預けとなりここで最期を迎えました |
浄安寺には①徳松君の墓、②供養塔、③竹の局の墓があります。④は寛永5年まで藩主だった高力忠清の墓 |
岩槻の偉人儒学者児玉南柯の墓も浄安寺にあります |
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岩槻に過ぎたるものの二つあり 児玉南柯と時の鐘 |
岩槻城は江戸時代には将軍日光御成の際の宿泊城。譜代大名が置かれ、多くの老中を輩出しました。 |
城の遺構はあまり残されていませんが、蓮と水連の池には美しい八つ橋が作られ、市民憩いの公園です |
岩槻は「人形の街」2020年には、人形の歴史や製作過程を展示する人形博物館が開館しました |
児玉南柯は岩槻藩士でしたが、部下の不正の責任をとり辞職。私塾遷喬館を開きました。後に藩校となります。 |
↑は大正時代建築の東玉大正館。もとは銀行でした |
乙未のお仲間M女史は岩槻の出身。徳松君や歴代藩主の詳細で興味深い資料を整え、通常の歴史散歩では味わえない裏道や見どころを案内してくれました。一同楽しみました。 |
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歌麿・写楽の仕掛け人-蔦重を知ろう:日本橋散歩2024.1.14 |
浅草御坊跡-蔦屋重三郎「耕所堂」跡-しもむら大丸跡-池州稲荷神社-伊場仙-十軒店跡(出雲寺和泉掾)-佐々木印店-本町通り奈良屋跡-須原屋市兵衛跡(室町一丁目)-熈代勝覧-須原屋茂兵衛跡(通一丁目)-榛原(須原屋佐助) 。案内人は中央区観光協会でブログを書いたりガイドをしているS女史。漢検も京都検定も江戸検も一級という才女です。 |
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都営新宿線馬喰横山駅に集合。ここに広大な敷地のあった西本願寺別院が明暦の大火で焼け、現在の築地本願寺に。跡地は福井の松平越前守に下賜されました |
蔦重については江戸仲間は皆詳しい。何しろ才覚のある人で、吉原細見を分かりやすくしたり、売れる作家や絵師を見出したり。ご存じない方は来年の大河ドラマで |
大丸は初めここ大伝馬町に大きな店がありましたが、鉄道の駅から離れていたため寂れて閉店したのだそうです。現在の東京駅のデパートは再開店 |
池州稲荷。イケスとは生簀、即ち生きた魚がいる所。小田原の生簀屋敷が移ってきてこの名に。通旅籠町の守護神で商売繁盛五穀豊穣の神様 |
「着物の田源」にも寄りました。文化13年(1916)創業の呉服問屋で、2階には秤(右)や蚊帳仲間の鑑札授与のお礼の文書(左)等の展示が |
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伊場仙は家康公江戸開府の折に浜松から下った商人で、幕府御用達の和紙・竹製品、江戸中期からは扇子の浮世絵を扱い今に至る |
↑薬祖神社。日本橋本町は薬問屋発祥の地。ここのオフィス街は今も製薬会社や医療機器の会社が沢山あります。 |
十軒店と言えば、江戸仲間は雛市!と思います。ここには「出雲寺和泉掾」という、京都書物問屋の江戸店がありました。 |
本町通りは家康公入府の時実施された町割りで、3人の町年寄★奈良屋、★樽屋、★喜多村が↑に屋敷地を拝領していました |
室町4丁目にある佐々木印店は幕府の「御印判師」を務めていた近江出身の商人。御三家や大名の印判も扱っていました。 |
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三越前駅のコンコースには1999年ドイツで発見された「煕代勝覧」の長ーい絵巻が展示されています。↑出雲寺和泉掾の看板と店先 |
↑は「すはらや」の暖簾が示すように須原屋市兵衛の「申椒堂」。全長12m以上の絵巻は残念ながら西側のみしか発見されていない |
日本橋の交差点近くにあったと思われる須原屋茂兵衛の店を過ぎ、文化3年創業、今も人気の紙製品の店「榛原」へ。 |
「江戸買物独案内」という、200年前のお買物ガイドブックにも榛原の名前があります。欲しい物は皆揃えてあるS女史の資料 |
榛原前で集合写真を撮った後は丸善のカフェでランチをとって解散しました。本に囲まれて美味しい食事は完璧なプラン |
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鎌倉街道を歩く-渋谷から千駄ヶ谷2023.9.23 |
渋谷金王八幡宮-表参道-信濃善光寺江戸別院-キラー通り-妙圓寺-青山熊野神社-勢揃坂-龍厳寺-オリンピック記念モニュメント-仙寿院-鳩森八幡宮-JR千駄ヶ谷駅 |
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渋谷駅からすぐ、金王八幡宮は鎌倉時代創建。奥州征伐の源義家に従った河崎基家が戦功により今の渋谷の地を賜り、その子重家は渋谷姓となりました。 |
ここには渋谷氏の居城渋谷城がありました。宝物館には周囲に水堀のある渋谷城(砦)の模型や、現存する日本最古の神輿(右写真)があります |
重家は八幡様に願って嫡子金王丸を授かりました。境内には金王丸を祀る御影堂、江戸時代は三名桜のひとつとされた金王桜等があります |
金王神社から旧鎌倉道を歩き、青山学院の横を通って表参道へ。人で溢れる交差点の先には話題のアイムドーナツを求める大行列が! |
国道246号沿いの信濃善光寺別院。幕末、蛮社の獄で捕えられ、牢の出火に乗じて脱獄した高野長英がこの辺りに潜伏していました。 |
追手を逃れるため酸で顔を焼き逃亡していた長英ですが、青山で見つかり自刃しました。善光寺の境内に来歴を記した高野長英の碑があります |
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キラー通りに入り、妙圓寺へ。昭和40年、もともとの原宿村も含め、広い地域の住居表示が「神宮前〇丁目」に統一されました |
妙圓寺には原宿の名を残す為の「原宿発祥の地」の碑。境内には「左にほんばし右鎌くら」の道標もありました |
江戸時代盛んだった熊野詣。青山熊野神社はもとは紀州徳川家の邸内社で、社幕にも葵の御紋があります。 |
源義家が閲兵したという勢揃坂の途中にある龍厳寺。葛飾北斎の富嶽三十六景のひとつ「青山円座松」があった処 |
維新で神仏分離が行われ、神式の亀墓にする大名も多かった。↑は浅野家の墓。徳川慶喜の墓もこの形 |
八幡太郎義家が奥州征伐に行くとき腰かけたという史跡が全国にあります。ここにも「義家腰かけ石」 が |
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蘭学者小関三英の墓もここ龍厳寺にあります |
宇賀神信仰の象徴人頭蛇体の仏様 |
坂を降りきると新国立競技場前広場です。オリンピック記念モニュメントで集合写真を撮影 |
1964年東京オリンピックの時の懐かしい旧聖火台と加納治五郎の銅像。この聖火台は川口の鋳物工場製 |
仙寿院は家康の11男頼宣12代頼房(即ち御三家の2人)の生母お万の方が発願し建てた日蓮宗の寺 |
ある日森の上に白雲が現れ数多の白鳩が飛び立ったという霊瑞により造られた「鳩森八幡宮」には富士塚あり |
高さ5mの千駄ヶ谷富士は都指定有形文化財。頂上近くには富士山の溶岩が配してあります。 |
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赤坂離宮迎賓館見学2023.5.7 |
迎賓館はご存じの通り、もと紀州徳川家の中屋敷。廃藩後用地は皇室に献上され、M42東宮御所として洋館が建設されました。設計はジョサイア・コンドルの4人の弟子のうちの一人片山東熊。ともかく地震に強い建物をということで、建物全体の3分の1は壁材ではないかというくらい。最も薄い壁でも30cm近い厚みがあるそうです。関東大震災にもびくともせず、シャンデリアが落ちることもありませんでした。戦後は国に移管され、S49に修復を経て迎賓館として国賓を迎える外交の舞台となりました。H21には本館、正門、噴水等が明治以降の建物としては初めての国宝に指定されています。内部は撮影禁止なので下段の写真はパンフレットです。 |
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四ツ谷駅に集合し、駅そばの中華料理店でランチをとってスタート。↑の正門ではなく西門から入ります |
入園するのに金属探知機による手荷物検査が必要でした。ざんざん降りの雨の中、律儀に噴水が噴出中 |
先ず和風別館「游心亭」でガイド付見学。前庭や天井、壁、床の説明から様々なエピソード等、興味深く聴きました |
次に本館へ。すごい雨でしたが、中に入るとバロック調でありながら和の意匠をちりばめた豪華な賓室は別世界 |
本館前で外国人旅行客と思しきご夫婦に頼んで集合写真を撮りました。 |
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最も格式の高い「朝日の間」は東宮御所として建てられた時は食堂だったそうです |
馬車に乗った女神が朝日の中を行く天井絵が朝日の間の由来です。H31に修復完成 |
「花鳥の間」には30枚の七宝焼の花鳥が飾られています。シャンデリアの上は油彩画。 |
游心亭の主和室。晴れていると真下の池の水が天井にゆらめきを映し出すそうです |
茶室は外国の賓客にも茶道の雰囲気を楽しめる様にサイズも造りも工夫されています。 |
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流山本町江戸回廊を歩く2023.1.29 |
JR馬橋駅〜流鉄流山線馬橋駅—[流鉄流山線]—平和台駅〜陸軍糧秣廠跡碑〜赤城神社〜光明院〜一茶双樹記念館〜杜のアトリエ黎明〜昼食(味の民芸)〜流山本町まちなかミュージアム〜寺田園茶舗〜閻魔堂〜近藤勇陣屋跡〜常与寺〜浅間神社(富士塚)〜呉服新川屋店舗〜流山市立博物館〜流山駅(15:00)—[流鉄流山線]—幸谷駅〜JR新松戸駅 。 |
☆流山と聞いて私たちがまず連想するのは新選組の駐屯地。新政府軍の攻撃から逃れ体勢を立て直すため、4月2日流山に陣を構えた近藤勇はしかし、翌3日には包囲され、その夜、捕えられて谷河原(やっから)の渡しから連れ去られましたから、わずか2日の滞在だったのです
☆流山はまた、関東でのみりん発祥の地でもあります。「都心から一番近いローカル線」と言われる、全長5,7kmの流鉄流山線は実は流山名産の白みりんを輸送するために作られた鉄道でした。
もともと水質の良かった流山は酒造も盛んで、江戸中期、秋元酒造5代目の三左衛門が「天晴みりん」を、ついでやはり酒造家の堀切紋次郎が「万上みりん」を作りました。関西の褐色の赤みりんに対して、流山のものは白みりんと呼ばれ、江戸で好まれました。
☆三左衛門は俳句を好み、双樹と称して小林一茶と深い親交を結びましたので、流山は一茶ゆかりの地でもあります。 |
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流鉄流山線平和台駅(左緑矢印)から流山駅(右緑矢印)まで歩きました。赤城神社~一茶双樹記念館は赤丸あたり 、近藤勇陣屋や浅間神社は青丸周辺にあります。ごく狭い範囲ですが、見どころがいっぱいです。黄矢印は食事をした「民芸」というお店です |
JR馬橋駅に集合。駅周辺看板を使って本日の地理と概要説明中のリーダーT氏とわくわくの乙未会員たち |
流鉄流山線馬橋駅に移動し、窓口で昨今珍しい硬券購入。乗ったのは「オムライス列車」というあだ名の黄色と赤の二両編成 |
馬橋、幸谷、小金城趾、鰭ヶ崎、平和台、流山の6つしか駅が無い、単線の流山線は鉄道ファンに人気。平和台駅前でコース確認 |
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平和台駅周辺は陸軍の軍馬の食料である干し草の製造、保管をしていた糧秣廠跡。広い敷地と鉄道の便があったから |
赤城山の噴火で流れてきた土積で出来たから流山という地名になりました。↑はその由来となった土塊がある赤城神社。巨大なしめ縄は無形民族文化財 |
光明院は、新選組が分宿したことと、一茶と親交があった秋元双樹の菩提寺として有名。境内には双樹夫妻の墓や一茶と双樹の句碑があります |
秋元双樹は「天晴みりん」で財をなし、俳句の師と仰ぐ一茶を経済的にも精神的にも支えた人物。そのため一茶は50回以上もこの地を訪れています |
左は「豆引や跡は月夜にまかすなり」という双樹の句に「烟らぬ家もうそ寒くして」と一茶が付けた句碑。右は一茶の「夕月や流れ残りのきりぎりす」の句碑 |
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一茶と双樹親交の記念として、本家の敷地に安政年間の秋元家の母屋を修復して「一茶庵・双樹亭」が建てられました。 |
秋元家からはその後も洋画家で歌人の秋元松子など芸術家が生まれます。↑は同じ敷地にある「杜のアトリエ黎明」。 |
日差しの暖かい良い天気。少しもどり、流山街道に面した「味の民芸」という和食レストランで昼食をとりました。 |
天晴みりんに続きみりん製造を行った堀切家の「万上みりん」は現在キッコーマン。工場の外壁は「まちなかミュージアム」 |
まちなかミュージアムの通りは江戸川のすぐ横。土手に上がるとスカイツリー(矢印)が見えました。午前中なら富士山も見えます。 |
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寺田園旧店舗は明治22年築、黒漆喰仕上げ土蔵造りの建物で国の登録有形文化財。現在は万華鏡ギャラリーとなっています |
北に少し行くと昔は賑やかだったという小路にある閻魔堂。ここには義賊金子市之丞とその恋人遊女三千歳のお墓があります |
歌舞伎「天衣上野初花」では金市も登場しますが三千歳の想い人は直次郎で中心は河内山宗俊。歌舞伎通S女史にその辺を解説していただきました |
近藤勇率いる新選組がどこに陣屋を置いたかは諸説あるそうです。永岡屋(当時は嶋屋)という説が有力。そこに陣屋跡の石碑があり横に説明板があります |
常与寺は鎌倉時代創建。明治5年に県内初の小学校と師範学校(現千葉大教育学部)が置かれた寺院です。教師志望者の半分は女性だったそうです。 |
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向かい側は浅間神社。新選組を包囲した新政府軍はここの裏手に本陣を敷いたといわれています。今は裏手に富士山があります |
明治25年に作られた富士塚。富士山から運んだ溶岩でごつごつした山は高さ6m。頂上には木花咲耶姫が祀られています。 |
呉服新川屋土蔵店舗は明治23年築で国の有形文化財。ここの鬼瓦は大黒と恵比須です。↑は大黒様。反対側が恵比須様 |
現在流山市立博物館のある高台は文久年間、田中藩本多家の江戸屋敷が移転したもと武家地。明治時代には葛飾県印旛県の県庁がある下総の中心でした |
下総の遺跡や地名の云われ、みりんの歴史や寺社に伝わる民話、新選組の動向などの展示を見学し、本日の集合写真を撮りました。 |
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佐倉散歩2022.10.2 |
本当に久しぶりの歴史散歩。乙未の会単独の散歩としては3年ぶりです。
京成佐倉駅に集合-佐倉城址-さむらいの古径ひよどり坂-武家屋敷-くもの井の湧水-堀田邸さくら庭園-佐倉順天堂記念館 |
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朝11:00京成佐倉駅集合。近くのファミレスでまず腹ごしらえして歩き始めました。 |
江戸の守りに重要な佐倉城。土井利勝が城と城下を整備しました。巨大な馬出しと空堀が目を引きます |
ペリー来航の翌年来日したハリスの銅像、交渉に当たったのが当時の佐倉藩主堀田正睦でした |
大手門までの道。前月は週末毎の台風に見舞われましたが今日は上天気。熱中症が心配なほど |
正睦は小児の養育や藩士の教育を重視し藩校成徳書院を拡充。医学科を設け西洋の学問も取り入れました |
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ひよどり坂は佐倉城への登城路。竹林の道は写真スポットです。日本語ペラペラの白人女性にシャッターを切ってもらいました |
天保のころ発布された「居住の制」。新築家屋はそれぞれの格に応じて建坪や玄関の作り、門、長押、畳などに決まりがありました |
左は約39坪の旧河原家。鏑木小路から移築。真ん中は33坪の旧但馬家。玄関は許されているが長押は座敷でも許されません |
上は20坪の旧武居家。幕末の禄高は90石であったとのこと。座敷以外は縁なしの畳。移築家屋。屋根はもとは茅葺でした |
武家屋敷から鏑木に下ると「蜘蛛の井の湧水」。城があるのは粘土質の上に火山灰が積もってできた台地。台地側面は湧水が多いのです |
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堀田正睦の嫡子正倫が明治23年佐倉に戻って建てた屋敷と庭園は「旧堀田邸さくら庭園」となっています。国の重要文化財です。 |
正倫は広大な敷地を農事試験場に提供し、奨学金を出すなど教育に力をいれ地域の発展に尽力しました。玄関前で集合写真。 |
屋敷と庭は併せて約1万坪。玄関棟、座敷棟、居間棟、台所棟、書斎棟のある二階建て。堀田邸から成田街道をたどり→ |
佐倉順天堂記念館へ。堀田家に招聘された佐藤泰然の実子や養子、門人達は日本の医学や衛生学の発展に大いに貢献しました |
治療、手術の料金表が展示されています。お産は安産なら金二百疋、難産なら金五百疋(50万円位)、帝王切開は金十両(100万位?) |
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「神田今昔絵空ごと」木下栄三水彩画展2020.9.26 |
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乙未の仲間にとっては大先輩、第3回の江戸検1級合格者木下栄三先生は建築家で画家。「将軍菓子尽くし十五代」という展示も面白かったので載せてあります |
神田多町の松本邸横の「東京佳日」で開かれた水彩画展に駆け付けました。 |
松本邸は昭和6年に建築された、神田多町問屋街に残る震災復興町家で元青果物問屋の店舗兼住宅。横の路地を入るとギャラリーがあります。 |
江戸検一級仲間の女性に大人気の木下栄三さん。「皇居東御苑草木貼」等の著書もあり。今回は建築家らしい緻密なデッサンと豊富な歴史の知識と神田愛に溢れる絵画展です。 |
上は「神田・橋巡り地図」。隅田川、神田川、日本橋川の橋を網羅していて、神田っ子には懐かしく、江戸好きなら必見のスポット。 |
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右上の写真の松本家住宅主屋。ご覧の通り、切妻づくり、木造三階建の建物が忠実に再現された水彩画です。 |
神田と言えば古本屋街。毎年秋には古本祭りが開かれます |
関東大震災の後↑のように、火災に強い銅板づくりの店舗が増えました。この一帯は戦災では焼けずに残りました |
木下さんならではの不思議な絵。江戸城の石垣は穴太衆が積んだと伝えられ、発掘された石で馬事公苑に石垣が作られています |
コロナのせいで、ずっと街歩きが出来なかった乙未の仲間たち。木下先生のおかげで久しぶりに大集合です。 |
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令和の歌舞伎鑑賞会 2020.1.5 |
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国立劇場の新春歌舞伎です。最寄りの駅は地下鉄半蔵門。構内に↑のような半蔵門とお濠のタイル画がありました。 |
千代田区隼町にあります。江戸開府当時、鷹匠の屋敷があったから。後には明石藩邸、渡辺崋山が生まれた田原藩邸、火消し屋敷等がこの周辺にありました |
館内はお正月らしい意匠でいっぱい。企画者S女史によれば、いつもは口上「初春の令月にして気淑く・・」等と書いた板戸があるそうです。 |
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お正月のお芝居見物。女性たちがおしゃれを競うのは江戸も令和も同じこと。S女史の着物の裏地は歌舞伎の隈取りの柄でした |
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←失礼してSさんのお着物の裏地をお見せしちゃう |
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初芝居では毎日手拭撒き。そして初日から5日間、ロビーでは獅子舞が披露されます。最後はお祝儀を出して頭を噛んでもらうお客さんも。 |
演目は「菊一座令和仇討」。鶴屋南北「御国入曽我中村」 を元に、音羽屋の花形を存分に魅せる華やかな演出になっていました。 |
序幕は鎌倉時代の時代物仕立てなのですが、二幕目からは世話物の世界。「朝比奈切通福寿湯の場」は江戸時代のお湯やさんで、くすぐりの多い幕。暖簾に五輪のマークを描いたり、「湯から上がってタピオカドリンクでも」とか、「どこへ行った?闇営業かい?」「ぼーっと生きてんじゃねーよ」「これぞワンチーム!」 といった台詞が飛び交います。 |
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赤穂事件の関係者史跡ウォーク(「江戸を歩く会」に参加)2019.12.15 |
JR東中野駅―上高田の寺町(万昌院功運寺、青原寺、高徳寺、源通寺、龍興禅寺、天徳院)―お犬屋敷跡 |
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東中野駅集合。今回は「江戸を歩く会」のイベントに特別参加させていただきます。中野周辺は都心から移転してきたお寺が沢山あります |
まずはお芝居では敵役、吉良上野介の菩提寺万昌院功運寺へ。すっかり嫌われ者にされたため、最近までお墓は公開されませんでした。領地では名君と称えられており、近年見方が変わってきています。NHKの大河ドラマで上野介を演じた石坂浩二氏の花が手向けられていました。刃傷事件の時手当をした蘭医栗崎道有の墓も同じ墓地にあります。返却された上野介の首を胴体に縫い合わせたのも道有でした。 |
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青原寺。ここには、忠臣蔵映画で中村錦之助が演じて有名になった脇坂淡路守の墓があります。(上野介が刀の提緒を血で汚したと騒ぐ役) |
青原寺の隣にある源通寺。幕末から明治にかけての歌舞伎作者河竹黙阿弥(二世新七)の墓所にも寄りました。 |
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その隣の高徳寺にあるのは家宣公家継公に仕えた儒学者新井白石夫妻の墓所。彼は本所吉良邸の隣、土屋家の元家臣。討ち入りの様子も聞いたとのこと |
その隣の龍興禅寺には、綱吉の側用人柳沢吉保の側室染子の墓所があります。染子の産んだ吉里は実は将軍綱吉の胤という噂が立つくらい、立派な墓。 |
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↑の寺のある通りから200mほどの天徳院には、無縁墓と一緒に梶川与惣兵衛の墓。浅野内匠頭を抱き留め、褒賞を得たことで子孫まで憎まれ役となってしまいました。 |
有名な「生類憐みの令」の産物。野犬などの保護のため中野に16万坪もある犬屋敷が作られました |
そして乙未の会の会員と、一緒に歩いたお仲間で、歩く会のメンバーさん経営の代々木上原「ふうらい坊」で忘年会。 |
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人物で辿ってみる日本橋・茅場町散歩 -2019.9.15- |
東京メトロ小伝馬町駅~安楽寺・十思公園(石町時の鐘・吉田松陰終焉の地・伝馬町牢屋敷展示館 )~夜半亭・蕪村住居跡、石町時の鐘の鐘撞堂跡~長崎屋跡~十軒店跡~芭蕉句碑~三浦按針遺跡~日本橋由来記・晒場・魚市場発祥の地~名水白木屋の井戸~海運橋親柱(紅葉側・向井将監屋敷跡)~活鯛屋敷跡~南茅場町大番屋敷跡~智泉院・山王御旅所・明徳稲荷・其角住居跡~写楽寓居跡~地図御用所跡~船出組組屋敷跡~八丁堀与力同心組屋敷跡(加藤枝直・加藤千蔭は南町与力、青木昆陽が店借) |
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地下鉄小伝馬町4番出口を出ると目の前に「石町時の鐘」「小伝馬町牢屋敷跡」「吉田松陰先生終焉の地」の石碑 |
誰も欲しがらない牢屋跡地を大倉喜八郎と安田善次郎2人の財閥が寄進して大安楽寺①を建てました。境内に②「江戸傳馬町牢御椓(タタキ)場跡」の碑。③は展示館にある牢屋敷の模型④十思公園にある鐘楼。鐘は明治4まで使われていたもの |
実際の時の鐘鐘撞堂跡は↑の切絵図でわかる様に牢屋敷(現在の十思公園)から少し離れたところにありました。 |
夜半亭はここに住んだ俳人早野巴人の号。彼の内弟子蕪村が巴人の死後、京都で復活させ、この名が全国区に |
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この近くにあった「長崎屋」はオランダ商館長江戸参府時の定宿。宿泊しているシーボルトらを訪ねてくる、杉田玄白、桂川甫周ら蘭学者たちが列をなしていたそうです。 |
十軒店は江戸時代、桃の節句の時期になると雛市が立ち、人形の店が並びました。↑は東京メトロ入口にある説明板の北斎「画本東都遊」。繁盛の様子がわかります。 |
「発句也松尾桃青宿の春」 小田原町に住んでいた時の芭蕉(当時は桃青)の句 |
ワンブロック先を曲がるとウィリアムアダムスこと三浦按針遺跡の石碑があります |
日本橋北詰は魚河岸があり、江戸時代「日に千両落ちる」と言われた賑いでした。関東大震災後、市場は築地に移転しました。↑は震災前の写真。向かい側は高札場と晒場です |
白木屋2代目彦太郎が掘った井戸の水は「白木屋の名水」として有名 |
楓川と日本橋川合流地点にあった海運橋はもと海賊橋と呼ばれていました。↑は親柱跡の碑 |
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江戸城に納める魚の管理の為江戸橋広小路に作られた魚役所。生簀があり「活鯛屋敷」と呼ばれました(詳細不明)。後に置かれた東京郵便役所(郵便発祥の地日本橋郵便局)では魚の匂いに閉口したとか |
M11年証券取引所が出来た時創建された兜神社にも寄りました。↑は境内の「兜岩」 |
源義家もしくは平将門がその名の由来?「鎧の渡し」を案内するS女史(ヒミコサマ) |
日本橋日枝神社は赤坂山王権現の摂社で山王祭の御旅所。境内に明徳稲荷があります。薬師堂はもと日枝神社の別当寺だった智泉院。明治の神仏分離で現在は独立した寺院。 |
そのすぐ近くに宝井其角の住居跡。旗本の御用医師の子で日本橋育ちの彼は、江戸っ子には師の芭蕉より人気がありました。英一蝶や赤穂浪士の大高源吾との交流も有名 |
そして町奉行配下の与力同心の組屋敷があった八丁堀へ。↑のイラスト、左は与力の出勤、右は定町廻り同心。身分は高くないけれど実入りがあって生活は楽、随分もてたそうです。 |
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↑向井将監が管理していた天地丸 |
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組屋敷は民間に貸して収入源にすることもできました。 伊能忠敬は北町奉行所与力の土地を間借して住み、ここで亡くなりました。住居は地図御用所としても使われていました |
また亀島橋のすぐ近くには東洲斎写楽こと阿波蜂須賀家のお抱え能役者だった斎藤十郎兵衛も住んでいました。「銀座の柳4代目」の下に↑のような説明板があります |
亀島橋より下流に船見番所と船手組屋敷が置かれました。向井将監(後の御船手頭)は大坂冬の陣で水軍を率いて西軍を破り、6千石の旗本となりました。将監屋敷は海賊橋東詰に |
そしてかつて楓川にかかっていた弾正橋を通り、京橋へ。弾正橋は明治期我が国初の鉄製の国産橋梁だそうです。左は欄干に擬宝珠がついた京橋。右はその横の洒落た造りの交番 |
京橋の「うおや一丁」で宴会。本日のガイドS女史は中央区の観光協会特派員だけあって、こんな都心の美味しい居酒屋さんでしかもリーゾナブルなお店をご存知なんです。 |
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新選組ゆかりの日野を歩く -2019.9.15- |
散策ルート:JR日野駅集合-新選組のふるさと歴史館-日野宿本陣(佐藤彦五郎邸)-佐藤彦五郎資料館-土方歳三資料館-石田寺-高幡不動 |
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日野周辺は土方歳三や井上源三郎の故郷。多くの隊士が剣術を学んだ天然理心流近藤周助(勇の養父)の佐藤道場もありました |
新選組のふるさと歴史館は歳三没後150年特別展開催中。書簡や箱舘海戦図等多くの史料が展示されています。ここと土方歳三資料館で集合写真 |
↑日野宿問屋場・高札跡。日野は小さな宿場ですが甲州道中の要所であり、多摩川の渡の管理も任され、伝統的に農民自治が続いていました |
都内に現存する唯一の本陣建築。日野本郷三千石を支配した佐藤彦五郎が文久3年(1863)に建てたもの。「佐藤道場」はここにありました。 |
佐藤彦五郎新撰組資料館は子孫の福子さんが館長。最近見つかった、龍馬暗殺を疑われた紀州藩士三浦宛の手紙も展示されています。 |
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土方は箱舘で戦死する直前市村鉄之助少年に遺品を託し、佐藤家に報告するよう命じました。良く知られている歳三の写真はこの時のもの。 |
菩提寺石田寺(セキデンジ)にある土方歳三の墓。歳三が生まれる前からここには11軒の土方家がありました。表札も墓石も「土方家」だらけでした |
佐藤彦五郎資料館のある「甲州街道」から土方歳三資料館のある「万願寺」、そして飲み会会場の「高幡不動」へはモノレールで移動しました。 |
高幡不動尊金剛寺は関東三不動のひとつ。1100年の歴史があり、丈六不動明王坐像は国の重文。歩き疲れて到着した頃は日も暮れかけ・・ |
メンバーのS女史は漢字検定一級、江戸検一級。だけでもすごいのに、今年京都検定一級にも合格した才色兼備のお姉さま。宴会で花束贈呈! |
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乙未の会、日経新聞に載る! -2019.3.28- |
↓のセミナーの時に取材を受けました |
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竹内京子さんは年に数回、同好の士と共に関東近郊を旅行する。全部で13人の仲間が集まったきっかけは江戸文化歴史検定だ。2006年から博物館などが催す同検定1級は合格率が3%を切る年もある難関で、2015年の合格者で干支にちなんで「乙未(いつび)の会」をつくった。9度目の挑戦で合格した竹内さんは「お互い何の仕事をしているかも知らないが、難関を突破した歴史好き同士の結びつきは強い」と話す。 |
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浅草・吉原散歩-2019.1.20- |
[散策ルート:浅草花川戸交番前集合→芝居町跡→池波正太郎生誕地碑→待乳山聖天→今戸橋跡→今戸神社→山谷堀跡→春慶院(万治高尾の墓)→東禅寺(江戸六地蔵)→見返り柳→五十間道→吉原大門→吉原神社→吉原弁財天→浅草鷲(オオトリ)神社→飛不動→樋口一葉旧居跡→三ノ輪駅] |
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集合前に浅草文化センター8Fへ。ここは眼下に仲見世や浅草寺、目の前にスカイツリーが見える絶景ポイント。集合場所の花川戸交番の青い屋根を確認 |
1843年浅草猿若町に江戸三座が移転してきました。天保の改革で廃止されそうだった芝居小屋。存続を進言したのは「遠山の金さん」です |
鬼平ファンの聖地?池波正太郎はT12.1.25、浅草聖天町に生まれました。待乳山聖天の南側、生家のあった場所にレリーフ付きの生誕碑があります |
歓喜天を本尊とする待乳山聖天。シンボルは二股大根と巾着。夫婦和合や商売繁盛にご利益があります。境内の様子や説明はこちらへ。 |
標高10mの待乳山に登るにはケーブルカー!?「桜レール」と名前もついていて、壁にはお札が貼ってあります。正面からの階段でも十数段なんですが。 |
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今戸神社は京都石清水八幡宮を勧進して創建されました。縁結びの神様ということで休日は若い女性で混雑しています。 |
今戸焼のお店は今一軒を残すのみ。今戸焼「白井」の当主が錦絵や名所図会を使って説明してくれました。 |
江戸時代、吉原へ行くには徒歩、駕籠、舟のどれか。舟の客は柳橋の船宿で猪牙舟を雇い、山谷堀を行きました。山谷堀は今は埋め立てられ、暗渠の上は公園となっています。堀にかかっていた今戸橋や聖天橋の親柱が残っています。 |
この近くの春慶院には、伊達騒動の原因となった伊達綱宗の恋人で、様々なエピソードを残す「万治高尾」の墓があります。 |
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江戸に入る街道を守る六地蔵。奥州街道を守るのは東禅寺のお地蔵様。ここには銀座木村屋創業者夫妻の銅像も。 |
吉原を偲ぶ建造物は何も残っていませんが、ただ一つ、「吉原大門」交差点の近くに山谷堀の石垣が残っています。 |
舟を降りた客は日本堤を歩いて五十間道から吉原大門へ。この手前にあるのが有名な「見返り柳」です。(↑の切絵図の緑の〇 )この柳と、大門に向かう道は「く」の字に折れていて土手から大門(↑の赤い〇)が見えないようになっています。 |
吉原の5つの稲荷神社(玄徳・榎本・開運・黒助・明石)を合祀して明治5年に創られた吉原神社。ここで記念の集合写真を |
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江戸時代初期、畔に囲まれていた吉原付近の池に祀られた吉原弁財天。↑の弁天様は関東大震災の際の死者を弔い大正15年に造立されたもの。 |
江戸時代から「鳥の社」と呼ばれて賑い、吉原通いの口実にも使われた鷲神社。11月の酉の市の熊手守りは「かっこめ」と呼ばれる縁起物。 |
当正寶院の僧が本尊の不動明王を持って大和国に修行に行ったところ像は一夜にして飛び戻った。以来「飛不動」 と呼ばれるようになったそうです。 |
樋口一葉は明治26年からこの地に住み、この界隈を背景に名作「たけくらべ」等を書きました。左下は佐々木信綱書の「一葉女史たけくらべ記念碑」 |
そして三ノ輪駅から日比谷線で上野広小路へ。大好きな乙未のお仲間と、楽しい楽しい新年会でした。 |
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乙未の会韮山行 -2018.11.11- |
東京ー伊豆長岡ー韮山反射炉ー江川邸ー願成就院ー伊豆長岡ー東京
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東京発8:17の「快速アクティ―」2号車で待ち合わせて熱海・三島経由伊豆長岡へ |
「歴バスのる~ら」 は1日乗り放題¥300の循環バス。伊豆長岡駅からまず韮山反射炉へ |
幕末の韮山代官江川英龍が国産の鉄製大砲を作るべく建設を始めた反射炉 |
修復には反射炉が完成した当初の「塚本村」製の煉瓦も使われています。〇がその印 |
近くのレストランは日曜は激混雑と聞き、弁当持参。反射炉ガイダンスセンターのベンチで昼食 |
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源氏の流れを汲む江川家の門は格式のある薬医門。無数の穴は戦国時代の矢の跡。「薬医門」は「矢喰い門」が語源とか。 |
ボランティアガイドさんの説明で気が付いた、蔵の石瓦の滑り止めの形態。このガイドさん、江川家41代当主のお医者さんに命を救われた経験を持つそうです。 |
蔵の中は展示室になっています。↑は西洋の台場を示したボード。函館五稜郭の陵堡の形は攻撃の死角を無くすような形態をしています。 |
中央は焼夷弾で松脂や少量の火薬入り。右は砲弾。初めは球形の砲弾ができず弾道が不安定だったと反射炉のガイドさんに説明を受けました。 |
玄関前で集合写真を撮りました。江川邸の中はそれぞれで見学しました。屋敷内部の様子はこちらで。 |
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江川家代々のお墓がある日蓮宗本立寺。江川邸の土間の天井には日蓮が残した火伏のお札があり、江川邸は一度も火災に会っていません。 |
左から英龍の三男37代英敏、36代英龍、五男38代英武の墓。江川家は代々優秀で41代滉二氏は東大医学部教授、42代現当主洋氏は一級建築士です |
再び歴バス。「北条の里」で降り、願成就院へ。「吾妻鏡」に北条時政が頼朝の奥州藤原討伐を祈願して建立したという記述がある真言宗の寺 |
左の阿弥陀如来坐像は、不動明王像、毘沙門天像等と共に胎内の銘札により、運慶の作と確認され国宝に指定された。右は北条政子地蔵菩薩像。 |
歴バスで再び伊豆長岡駅に戻ってきました。歴バスのチケット特典で、駅向かいのお店で江川英龍の自画像の付いた「大砲ロール」購入。美味しい! |
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乙未の会、千住宿を歩く-2018.9.30- |
この日は台風24号が近付いており、天気予報は雨。しかし戸定邸の中なら濡れないから、と、朝松戸に集合しました。初めは霧雨で、昼頃から雨があがり、南千住から歩きはじめると何と途中で日がさし始めました。しかし次第に傘が必要になり、源長寺を出た辺りで土砂降り。初めの計画にあった、千住本陣跡、横山家住宅、名倉医院はパスして、丸井北千住店に入り、千住の宿場模型を見て、ティータイムのあと解散となりました。 |
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午前の部・戸定邸見学(松戸) |
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フランスから帰国して水戸徳川家を継いだ昭武公が明治17年から住んだのがここ松戸。建物は重文指定 |
邸内に蔵の扉があります。刀剣や甲冑収蔵の為のもの。現在は葵の御紋の長持等が納められています。 |
表座敷。右側は畳廊下で今は縁側もつけられています。廊下の天井の梁は一本柱で杉材だそうです |
客間の欄間はやはり葵、釘隠しも葵ですが、使者の間は中国では「福を呼ぶ」と言われる蝙蝠の意匠。 |
戸定みその坂を登った高台にあるので、東屋からは松戸の街が一望。晴れた日は富士山も見えるそうです |
午後の部・千住宿を歩く:JR南千住駅ー小塚原回向院ー延命寺ー浄閑寺(投込寺)ー都電三ノ輪橋駅停留所ー円通寺ー素戔嗚神社ー千住大橋ー奥の細道矢立初めの碑ー橋戸神社と伊豆長八のこて絵ー足立市場・芭蕉像ー源長寺ー一里塚・高札場跡ー千住宿問屋場・貫目改所跡ー金蔵寺(投入寺)ー千住宿模型(丸井北千住店10F) |
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生まれては苦界死しては浄閑寺 |
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南千住駅から線路沿いに南下し小塚原回向院へ。行路病者や刑死者を弔うため、寛文7年本所回向院の住職が開いた寺です |
安政の大獄により刑死した吉田松陰(左)橋本佐内(右)の墓。この他、頼美樹三郎の墓や、高橋お伝・鼠小僧次郎吉のお墓もあります |
浄閑寺は吉原の遊女達を供養してきた寺。安政大地震の際、多くの遊女が投げ込み同然に葬られたので以来「投込寺」と呼ばれる。 |
↑は平井権八に父を殺され、仇を討とうとして返り討ちにされた本庄兄弟の墓。弟は討たれた兄の首を井戸で洗っていて斬られた |
かつて多くの路線があった東京の路面電車も今は荒川線のみ。三ノ輪橋駅はその始発・終着駅で、「関東の駅百選」に選ばれています |
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大坂を起源とする蕎麦屋「砂場」は江戸時代から続く糀町の「砂場藤吉」が移転して存続したもの。更科、藪そばと並ぶ老舗です。 |
円通寺は坂上田村麿開創と伝えられる寺 。源義家が奥州平定時、打ち取った首で塚を作ったのでこの辺りを「小塚原」というそうです |
無数の弾痕が残る上野寛永寺黒門。慶応4年上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体を円通寺に葬った縁でここに下賜、移築されました |
素戔嗚神社は795年、牛頭天王・飛鳥権現が降臨した奇岩を祀って創建されました。境内の末社にその「瑞光石」が祀られています。 |
↑は千住大橋。右の絵は東都歳時記。素戔嗚神社祭礼最終日、氏子一同が千住大橋の両岸に分かれての綱引きは重要な神事でした |
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15C末創建の橋戸稲荷神社。江戸時代千住が宿場となり、千住大橋が架けられると人通りが増え、人々の信仰を集めました。 |
文久3年、拝殿の前扉に当時鏝(コテ)絵の名工と評判の「伊豆の長八」が白狐の鏝絵を制作。見事なレプリカが公開されています。 |
430年前にできた千住の青物市場。「ヤッチャイヤッチャイ」というセリ声からついた通称「やっちゃば」。神田駒込と共に幕府御用達市場でした。 |
行春や鳥啼き魚の目に泪千住は芭蕉の「奥の細道」への出発点。市場の横の「奥の細道プチテラス」に矢立を持った芭蕉像があります |
上は昭和5年の千住市場問屋配置図。中央の道が日光街道で右側が南詰。通りの店には「投師」「将軍鷹狩休憩所」等の札が出ています |
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後に千住宿に加宿された掃部宿。この名は村を拓き掃部堤を築いた石出掃部亮吉胤に由来。写真は源長寺にある彼の墓 |
千住掘と呼ばれた水路に掛っていた「千住小橋」の南袂には一里塚があり、反対側には2間×3間×1間半の高札場がありました。 |
北千住駅近くの金蔵寺(投入寺)。入ってすぐ左側に並んでいるのは千住の宿場女郎たちの供養塔と天保の大飢饉の餓死者の供養塔 |
丸井北千住店10階には千住宿場町の模型があります。旅籠、民家、店や蔵、人馬や第八車など、縮尺50分の1で再現したもの |
雨がひどくなったので行かれなかった貫目改所跡。↑はその役所の模型です。どこにどんな建物があったか忠実に再現されています |
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乙未の会 白金高輪から目黒散歩2018.4.22 |
白金高輪駅―魚籃寺―覚林寺―日吉阪・桑原坂―瑞聖寺―妙円寺ー行人坂―大円寺―お七の井戸(雅叙園)―太鼓橋―蟠龍寺―海福寺―五百羅漢寺―瀧泉寺(目黒不動)―蛸薬師成就院―大鳥神社―権之助坂―目黒駅 およそ5時間、19000歩ほど歩きました。 |
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魚籃坂の名は魚籃寺から。魚籃とは魚の籠。魚籃寺の観音様は中国の故事に因んで右手に魚の籠をさげている乙女の姿です。 |
覚林寺は別名「清正公様」。加藤清正が朝鮮から連れ帰り大切に育てた王子は博多で出家し、安房誕生寺の住職日延となりました。 |
日延は清正に恩義を感じ、肥後熊本藩中屋敷のあったこの地に覚林寺を開きました。本堂の扁額「破魔軍」は有栖川熾仁の書 |
覚林寺から瑞聖寺に向かう途中。日吉坂は能役者日吉喜兵衛が住んでいたから。八芳園と瑞聖寺の間にあるのは桑原坂 |
文政元年火伏の神様としてこの地に勧進された古地老稲荷。縁日には必ず雨が降り、関東大震災でも戦災でも焼けなかった! |
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瑞聖寺は江戸で最初の黄檗宗の寺。隠元禅師の弟子木庵性瑫開基。黄檗寺院の造りは中国風 |
妙円寺は「白金の妙見様」。江戸初期、滝本采女が足利義輝から拝領した妙見大菩薩が祀られている |
行人とは修験者。大円寺に通う行者が通った。坂の上の茶屋からは夕日に映える富士が美しく、「夕日の岡」と呼ばれた。 |
大円寺の門脇の目黒川架橋供養勢至菩薩石像。台座前側面に僧西運が1万日日参の行を積んで橋(↓)を架けたと書いてある |
大円寺山門は坂の途中。「生身の釈迦如来」といわれる清凉寺式釈迦如来立像などがあるが、名所図会等には載っていない |
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大円寺は 明和9年江戸中を焼き尽くす大火(行人坂の火事)の火元であった為、その後76年も再建が許されなかった。↑はその時の死者を弔う石仏群 |
行人坂の下から見上げると坂の急峻さを実感。名主菅沼権之助が傾斜の緩いバイパス(目黒駅方面の坂)を作ったが無許可だったので処刑されてしまった |
上記の西運は八百屋お七の放火の原因となった吉三郎という説もあります。雅叙園にある 「お七の井戸」は彼の水垢離の場とされています |
元は太鼓型だった太鼓橋。上記の説明では西運法師が架けたとありますがここの説明文では木喰上人が造り始め、八丁堀の商人が完成したとあります。 |
戒律を厳守する蟠龍寺。参道の結界石柱(左写真)には「不許辛肉酒入山門」(臭いが強く辛いものや肉を食べたり飲酒するものは立入禁止)とあります。 |
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蟠龍寺は江戸城裏鬼門の鎮守。岩屋には石造りの巌窟弁天(写真)、弁天堂には木造の弁天が祀られています。 |
海福寺は元は深川にあった黄檗宗の寺。赤い山門は四脚門。手前に文化4年永代橋崩落の際の死者を供養する碑があります。 |
五百羅漢寺は元は本所五ツ目にあった「本所の羅漢さん」。廃仏毀釈で目黒に移転し衰退、羅漢像も減少したが昭和に再建した |
ご存知目黒不動瀧泉寺。大同3年(808)開創。家光公の帰依で隆盛を誇り、後に官許の富くじが行われ、「江戸の三富」でも有名 |
慈覚大師が独鈷を投げた地から湧き、それ以来涸れないという独鈷の滝。修験者の水垢離の滝。NHK大河にも出ましたね |
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滝泉寺前にあったのは、普化宗の住職が平井権八に尺八を教えたという縁で作られた、芝居で有名な「権八小紫」の比翼塚 |
青木昆陽の墓も滝泉寺にあります。晩年の昆陽は大鳥神社の裏手に住み、生前に墓を作りました。「甘藷先生の墓」の字は自書 |
蛸薬師成就院のご本尊は3匹の蛸に支えられる蓮に乗った薬師如来。境内のお静地蔵は保科正之の母お静の方が奉納したもの |
旧目黒村の総鎮守、大鳥神社。目黒区内では最古の神社。毎年11月のお酉さまには多くの人出でにぎわいます。 |
大鳥神社所蔵のキリシタン灯篭。元は肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷に祀られ密かに信仰されていたと思われます |
このルートは元祖山手七福神を巡るルートでもあります。お正月には開帳があり、七福神ご朱印や七福神達磨がいただけます(有料ですよ)。
覚林寺=毘沙門天、瑞聖寺=布袋尊、妙円寺=福禄寿と寿老人、大円寺=大黒天、蟠龍寺=弁財天、滝泉寺=恵比寿神 |
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乙未の会 高輪ー麻布散歩 2018.1.28
泉岳寺ー細川家下屋敷ー水野家中屋敷ー松平家中屋敷ー善福寺ー長府藩毛利家中屋敷 |
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地下鉄泉岳寺駅に集合。本日ガイドのK氏から駅構内の地図で今日の散歩コースの説明を受けます。この周辺はジモティーのK氏にとって庭みたいなもの |
泉岳寺の手前の案内板。K氏の指先がここの場所、高輪接遇所跡、実際は東禅寺襲撃に懲りた英国が幕府に作らせたイギリス公使館でした |
泉岳寺は赤穂浅野家の菩提寺。家康の命で外桜田に建てられたが寛永18年の大火で焼失。この地に浅野家ら5大名が関って移転再建された縁に依ります |
江戸名所図会の泉岳寺。右上の本堂、左の階段を上がったところが墓所という配置が分ります。←の先、左写真と同じ位置には橋も描いてあります。 |
昔は何度も来た泉岳寺。江戸検のテーマが忠臣蔵だったH25以来です。江戸時代、芝居が当たってからすっかり江戸の名所になり、今も忠臣蔵ファンが訪れます。 |
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泉岳寺の東の細い路地を通って、大石内蔵助以下17名がお預けになり切腹した細川家下屋敷跡に向かいます。 |
細川家下屋敷の敷地は旧高松宮邸(平成天皇退位後の仮住まい)、高松中学、都営アパート群の3つに分けられ、中学の一部が上と右の写真の様に史跡として保存されています。崖下は旗本板倉の屋敷。延享年間板倉が細川を殺害した事件は人違いと言われていますが。 |
「細川の流した下水が争いの元という説もあります」とK氏の解説。ここからバスで三田の水野屋敷跡に向かう筈が!乗り間違い。 |
途中でバスを降りて三田に向かう途中、予定にはなかった荻生徂徠の墓のある長松寺を経由。徂徠は浪士切腹を主張した人物です。 |
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浪士預かりの岡崎藩水野家跡。細川の水の流れは清けれど・・」と水野家が浪士を大切に遇したという意味の落首は、どうも水野側の宣伝らしい |
寒かったので慶大向かいの喫茶店で休憩。この前後左手はずっと慶応大学。重文建造物演説館もちらっと見えました。東京タワーを正面にみて歩きます。 |
慶応の先を曲がると松山藩松平隠岐守下屋敷跡、現在のイタリア大使館です。非公開の美しい庭園は「ブラタモリ」でテレビ放映されたことがあります。 |
この辺りは源頼光四天王のひとり渡辺綱の生誕の地と言う説があり、それでここは「綱町」、手前の坂は「綱坂」 。「渡辺綱産湯の井戸」もありました。↑ |
島津家の分家佐土原藩島津家の下屋敷跡は綱町三井倶楽部。大正2年に建てられた三井家の迎賓館。かのジョサイア・コンドルに よる設計の美しい洋館です |
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織田出雲守(織田信雄の子孫)屋敷跡、オーストラリア大使館。手前の塀には何故か猿のレリーフ。明治期の持ち主蜂須賀家が引き払う時に置いて行ってしまったらしい。 |
そのお隣は公用会議所。ここは元渋沢敬三(栄一の孫)の屋敷がありましたが、戦後大蔵大臣時代に自らの制定した「財産税」を支払うために物納され、公用会議所となりました。 |
当時のお金で1500万円以上の財産があるものは資産の90%を納税しなければなりませんでした。渋沢邸は現在青森県三沢の古牧温泉に移築されています。 |
坂を下り二之橋で古川を渡ります。この先の「一之橋」は清河八郎が暗殺された所。古川は家綱時代には救民と舟運の為、綱吉時代には麻布御殿の為に拡幅、開削されました。 |
集合写真は麻布山善福寺で。ここは平安初期弘法大師開基ですが鎌倉時代に浄土真宗に改宗。最初のアメリカ公使館跡を示す石碑は親鸞ゆかりの大銀杏の下にありました。(左下写真) |
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右は福沢諭吉の墓。本人の意向で土葬されていた大崎の寺から善福寺に運ばれ火葬されました。それまで茶葉と伏流水に浸かっていた遺体は綺麗なままだったそうです。 |
「麻布十番」の名の由来をかいた碑。延宝年間の古川の改修工事の際に将監橋から一之橋まで10に分けた工区のうちこの辺りが十番だったことによります。 |
信州更級のそば打ち名人を置いて評判をとった「永坂更科そば」。7代目が道楽で店を手離し、近くの場所で「本家」に。元の場所の店と別のそばやとで永坂更科は今3軒あります。 |
長府藩毛利家上屋敷の庭園、つまり六本木ヒルズに着いた頃は日も傾き、前の週の雪が残っていて寒い。そんな中ロウバイが咲き、芳香が漂っていて一同癒されました。 |
ヒルズからミッドタウンへ。アマンドの交差点のビルの隙間に見える光專寺。崇源院(お江)の荼毘を行った寺で、佐藤一斎の墓のある深広寺も同じ場所にあります。 この後は宴会。お疲れ様! |
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乙未の会 小石川散歩 2017.11.12 |
集合は東京メトロ後楽園駅~伝通院~小石川東大植物園~山岡鉄舟旧宅地跡~徳川慶喜終焉の地~キリシタン屋敷跡~護国寺⇒宴会 |
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駅のそばにある春日局の銅像。文京区春日という地名は春日局の拝領屋敷がここにあったのが由来です。 |
先ずは伝通院へ。家康公の生母於大の方の菩提寺。伝通院はその法名です。千姫ほか、将軍家の若君や姫君らの墓があります。また幕末には山内の処静院で新徴組が結成されたと伝わっています。 |
於大の方の墓碑。三河の水野家に生まれ、岡崎城主松平広忠に嫁いで後の家康公を生みますが、水野が織田側に付いたため今川方の松平から離縁されました。徳川天下統一後ここに手厚く葬られました。 |
これは千姫の墓。秀忠の娘千姫は幼くして豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂夏の陣で大坂城落城直前に脱出。播州本多忠刻に再嫁しますが忠刻の死去で江戸に帰り、ここに眠ります。 |
三代将軍家光公の正室孝子の墓。家光は鷹司家から嫁いできた公家の姫に全く関心を示さず、夫婦仲は冷たかったと言います。本丸御殿を出て、御台所ではなく、「中の丸様」と呼ばれ、73歳で亡くなりました。 |
藤井紋太夫の墓。光圀公が隠居後、小石川藩邸内で重臣だった藤井紋太夫を突然刺殺しました。詳細は不明 |
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徳川の為の浪士組→新徴組を結成したのに突然自らを尊攘派と言いだし、揚句暗殺された清川八郎の墓も。 |
了誉上人が応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ場所にあるのが吉水山宗慶寺。元和6年茶阿の局(家康公6男忠輝の生母)の菩提寺となりました。天水桶にも葵の御紋。 |
竜が女の姿で現れて了誉上人に仏法の教えを乞い、奉恩に名水を出したのが「極楽水」。江戸名所図会にも宗慶寺と極楽水が載っています。明治の終わりの画家小林古径の絵「極楽井」(部分)でも有名です。 |
小石川植物園は綱吉の館林城主時代の別邸の地。貞享元年に小石川御薬園となり、享保7年小川笙船の提唱で小石川養生所が作られました。明治期以降は東大の植物の実地研究の場となっています。 |
旧小石川養生所の 井戸。養生所は貧困者の為の施療所。町奉行の管轄で、当初40名(後に170名)の患者を収容することができました。山本周五郎「赤ひげ診療譚」の舞台となったところです。 |
青木昆陽が救荒の為に甘藷(サツマイモ)の栽培を成功させたのがここ小石川。紫いもっぽい石碑が建っていました |
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山岡鉄舟旧宅地跡は現在高層マンション。暗殺された清川八郎の首を預かったのは鉄舟夫人英子でした。 |
徳川慶喜終焉の地は国際佛教学大学院大学になっています。。明治30年静岡から東京に戻り巣鴨に、明治34年からは小石川に転居、大正2年11月22日にこの地で亡くなりました。右は屋敷にあった銀杏。 |
キリシタン坂を上がったところにあるのが遠藤周作「沈黙」のキアラ、新井白石の「西洋紀聞」のシドッチらが居た切支丹屋敷跡。昨年の発掘調査ではシドッチのものらしきイタリア人の人骨が出たそうです。 |
最終目的地の護国寺。綱吉が生母桂昌院の願いで創建した祈願寺。元禄時代に建てられ、度重なる震災や戦災にも残った本堂と、近江三井寺から移築された月光殿は国の重要文化財。 |
仁王門前で今回の乙未参加者12名(全13名中です)で集合写真。正面は阿䢵の金剛力士像、背面は広目天増長天の二天像が安置されています。 |
この手洗水盤は桂昌院寄贈のもので、当時境内に自噴の手水は珍しく、江戸名所図会にも描かれています。 |
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もと土佐勤皇党の志士で維新後は陸軍省に入省した田中光顕の墓。暗殺を警戒した彼の家は警備堅固だった |
三条実美の墓は鳥居付きの立派なもの。尊攘派の公家だった実美は8月18日の政変で京を追われたが慶応3年の王政復古で復帰。新政府では太政大臣、後に内大臣となったが政治的な働きはあまりなかった |
山縣有朋のお墓も立派です。長州出身の彼は松下村塾に入り、高杉晋作の奇兵隊に参加しました。北越戊辰戦争では参謀を、維新後の西南戦争では総指揮をとり、明治22年には総理大臣となりました。 |
大隈重信は佐賀出身。明治政府では大蔵大輔として鉄道、電信の設置や富岡製糸場の設立等に貢献。一時国政から離れ、早稲田大学を創設。その後政界に復帰して外務大臣、総理大臣を務めました。 |
出雲松江藩7代藩主の松平不昧公の墓。不昧公は一流の茶人として知られます。硝子の天井に金魚を飼った等のエピソードもあります。「不昧公好み」の茶室や茶器、銘菓は現代にも伝えられています。 |
沢山歩いた今日の最後は夕やみ迫る護国寺の不老門。昭和13年建立。門の額字は徳川家達の筆によるもの。 |
ガイド担当の試験問題好きのA師がこんな問題と、資料を配布して下さいました。 |
「小石川歴史散策問題」
宝永6年12月切支丹屋敷にて新井白石はシドッチと対面した。尋問の初日に問答が長時間にわたり日が傾いた。そこで白石は奉行たちに今何時だろうか?と尋ねました。
1)奉行はなんとこたえたでしょうか?
そのあとシドッチが答えました。
2)シドッチはなんとこたえたでしょうか? 答えは→ |
1)「この辺りでは時の鐘も聞こえません。
2)太陽の当たっている所を見て、地面の自分の影を確かめ、何やら指折り数え、「我が国の法にては〇年〇月〇日〇の刻にて候」と言い放った。 |
更に、白石が世界地図を見せ、日本の位置を探させたが、通詞たちも分らない。するとシドッチは「チルチヌス(コンパスのこと)はあるか?」白石は懐にネジの緩んだコンパスを持っていた。シドッチはそれを使って分数をはかりとり、「江戸はここに候」「ローマはここ」と正確に示した。 |
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林氏墓地と牛込周辺散歩2017.11.5 |
林家は朱子学をもって徳川家に使えた儒学者の一族。初代林羅山は藤原惺窩に師事。方広寺の鐘の銘文の「国家安康」を指摘して豊臣を滅ぼす口実を作り、家康の信頼を得ました。以来、上野忍岡に家塾を開き、また徳川の学問、法制、外交を司りました。羅山の子鵞峰、その子鳳岡と、代々幕府の儒官として土地や家禄を賜り、5代綱吉は湯島に家塾を移させて「昌平黌」としました。8代述斎(岩村藩からの養子)の時に幕府の学問所となって、「林大学頭」を名乗り、家禄も3500石に加増されました。 |
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墓地に行く前に近藤勇らの道場「試衛館」跡に寄りました。 |
この辺りも坂が多い。これは「焼き餅坂」の道標。焼いた餅を売る店があったから。 |
国指定の文化財。11月初め「東京文化財ウィーク」に合わせて公開されています。 現在も子孫の方が墓地を守っていらっしゃるそうです。今日も供花がありました。 |
ボランティアガイドさんはいろんなことに詳しい。粽と屈原の関係まで教えてもらいました。 |
「文敏先生羅山林君之墓」大きなお墓ではありません。儒教式なので戒名もありません。 |
現在81基の一族の墓碑がありますが、儒葬の詳細は分っていません。最前列が代々の当主、一列後ろが夫人、子供たち、その後ろに他の親類一族の墓が並んでいます。 |
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ちょっと急な階段になっているこの坂は「宝竜寺坂」明治期には幽霊坂とも。 |
この近く、弁天町の浄輪寺にある数学者関孝和のお墓にも行きました。 |
関孝和の生い立ちはよくわかっていません。独学で数学を学び、従来用いられた算木を用いる天元術を改良して筆算式の代数「点竄(てんざん)術」を考案し、和算を高等数学として確立させました。 |
夏目漱石が晩年を過ごした早稲田南町にある漱石山房記念館にも行きました(9/24開館したばかり) |
漱石の家のペット達の供養塔。女婿松岡譲が建てた塔は空襲で倒壊し、残骸の石を積んだもの |
寛永期生まれの儒学者、軍学者として知られる山鹿素行のお墓が、牛込の宗修寺にあります。山鹿素行は会津出身。林羅山に朱子学を学び、また神道や軍学など様々な学問を修めましたが朱子学を批判して赤穂藩にお預けとなりました。 |
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乙未の会 品川散歩 2017.7.2 |
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品川歴史散策問題
慶安4年7月宝蔵院流槍術の名手丸橋忠弥は密告により捕縛され、鈴ヶ森初の磔刑(実際はもう死後)に処せられました。
さて、この丸橋忠弥を奉行所はどのような方法で捕縛したでしょう?
い)与力同心のうち槍の名手を先頭に踏み込んで捕縛した。
ろ)与力同心のうち小太刀の名手を先頭に踏み込んで捕縛した
は)密告した弟子に槍を隠すよう指示し、その後踏み込んで捕縛した。
に)「火事だ火事だ」と捕り手に叫ばせ、本人が無防備に出て来たところで捕縛した。
(ガイド役のお仲間が皆に配ったテストです) |
京急大森海岸駅集合。この日は山手線・京浜東北線がストップして集合が遅れました。女性陣は一緒にランチしたので早めに到着して男性陣を待ちました。 |
先ずは鈴ヶ森処刑場跡へ。髭文字の南無妙法蓮華経の石碑と、右は磔台の礎石。最初の処刑者は慶安の変で捕えられた丸橋忠弥でした。 |
次に向かったのはモース博士で有名な大森貝塚。この石碑は京浜東北線からよく見えます。考古学も学べる「貝塚公園」になっています。 |
それから品川歴史資料館へ。 品川宿の資料が充実しており、床には東海道沿いの両側の店名、横には模型があって、旅人気分で歩きます。 |
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上は北品川宿にあった本陣の模型、下は徒歩新宿の土蔵相模の模型。相模屋は旅籠というよりむしろ妓楼で、客は引き手茶屋から相模に上がった。 |
この後、土佐藩屋敷跡の坂本竜馬像などを見る予定でしたが、佐幕派で伊達贔屓のM女史の不思議な力で、何故か伊達味噌屋敷跡と仙台坂に。 |
青物横丁から新馬場へ。荏原神社では茅の輪くぐりを。この後寄木神社、本陣跡、御殿山下台場、利田神社、土蔵相模跡に行き、青物横丁でめでたく宴会 |
寄木神社の本殿の扉には名人伊豆の長八のこて絵(漆喰細工)。左は天鈿女命、右は猿田彦。これはパンフの写真ですが、本殿のガラス越しに拝観できます。 |
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乙未の会 お花見散歩 2017.3.26 |
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あいにくの小雨の中、江戸川橋駅集合。神田川沿いに江戸橋公園を歩き、神田上水の跡を見学するコース。椿山荘や関口芭蕉庵なども目的の一つ。 |
「神田上水は日本最古の都市水道です。・・・・」と書かれた標識 は交差点の隅にひっそり。字がかすれてあとは読めません。 |
左は、かつて度々洪水を起こしていた江戸川(神田川)の治水をした大井玄洞の銅像。右は「みなもと118.6キロすみだがわ16.0キロ」の標識 |
神田川のこの辺りは見事な桜並木です。お花見の予定が、今年は寒くてまだ殆ど桜が咲いていませんでした。お蔭でどこも空いていました。 |
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神田上水は関口大洗堰で水位を上げて水戸上屋敷方面へ。大洗堰の取水口にあった、流量調節のための石柱が一部復元されています。周辺の石垣はその時の石です。 |
椿山荘庭園散策。ここは久留里藩黒田氏の下屋敷を明治11年山縣有朋が購入して作った庭園。その後藤田財閥が譲り受け、戦後はホテルに。現在はフォーシーズンズH椿山荘。 |
園内には広島県の円通閣から移築した三重塔、鎌倉時代の石灯籠や石塔、手水石、八福神など見どころが沢山。椿を初め花も多い。美しく咲いていたケイオウ桜の横で記念写真 |
なんと、ここの庭園には、京都石峯寺にあったはずの、若冲デザインの五百羅漢が20体ほど置かれていました。若冲ファンの院長興奮、若冲大ファンのA氏大興奮! |
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椿山荘に隣接する関口芭蕉庵。松尾芭蕉が江戸川の治水工事に関った際に住んだ水番屋「龍隠庵」跡に芭蕉や弟子たちの像を祭る芭蕉堂が建てられました。 |
芭蕉の33回忌に建てられた建物や庭園は戦災で焼失し、戦後再建されました。園内には芭蕉堂や「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めた「さみだれ塚」等があります。 |
目白台周辺およそ3万坪は熊本の細川様の下屋敷でした。ここ「松聲閣」は細川家の学問所として使われていた建物だそうです。お抹茶を頂けるカフェがあり、庭や御座敷を見学できます。 |
夜は信州出身のリーダーT氏のお世話で信州料理の居酒屋で宴会。イナゴも「こねつけ」というおにぎりも美味!気の合う仲間との散策は雨でも咲いていない桜のお花見でも楽しかった。 |
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乙未の会 新年会は両国で2017.1.22 |
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新しく開館した「すみだ北斎美術館」に集合。こんなモダンな建物なんですね。 |
関東大震災で焼けてしまったものを白黒写真から復元したという、北斎の大絵馬「須佐之男命厄病退治之図」 |
常設展示室は狭く、観たことのある浮世絵も多いのですが、貴重な肉筆画も置いてあり、わかりやすい展示 でした |
ロビーは明るくて広い。でも人気のある企画展示のある時は大混雑らしいです。 |
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それから両国周辺を散策しました。以前に歩いた時にはなかった立札がいっぱい |
野美宿禰神社や、忠臣蔵ゆかりの史跡、吉良邸跡なども歩きました。 |
以前は勝海舟の碑だけだった両国公園もすっかり様変わりし、幕末の展示が沢山! |
そして、「江戸沢」でまた、わいわいと江戸のおしゃべりをしながらちゃんこを頂きました |
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乙未の会+2 草加散歩2016.11.27 |
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乙未の初代リーダーF氏が地元草加市と共同で立ち上げた「江戸文化を楽しむ会」の企画で「美人の里草加・明和のアイドル笠森お仙」の講演をされるので、乙未の仲間が駆けつけました。 |
講演は午後から。折角なので午前中、草加宿の街歩きをすることにしました。リーダーT氏が草加宿のガイドさんを手配、今年の合格者2名も加わって朝、草加駅に集合しました。 |
さて、日光街道を歩きます。道と店との境界線に注目。右側の店の玄関のラインは道と並行ではありません。街道をゆく旅人の方を向いているのです。 |
ガイドさんは幅広い知識を持っていて↑道標の説明中。「問屋場」ってわかりますか?今日の参加者は皆わかります。宿継をするところ。右は本陣跡の石標 |
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草加市歴史民俗資料館はもと小学校。草加市で初めての鉄筋コンクリ造りの小学校だそうです。 |
これは埼玉で出土した中で最大の丸木舟。完全な形で出土したのですが、風化が進んでしまった、残念。 |
この博物館の売り物の一つ、エジソン型スタンダード蓄音機。まだ音が出るのは珍しい。手回しで演奏を聴きました。 |
紅葉のおせん茶屋。草加せんべいの伝承上の創始者おせんに因んだ小さな広場。投句箱が設置してありました。 |
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東福寺は慶長11年創建の天台宗のお寺。山門は市の指定文化財。弘法大師の唐での修行の彫刻があります。 |
本堂内部欄間の彫刻も有名らしい。ここには「三鈷の松」があり、松葉を財布に入れておくと財をなすとか。 |
神明宮はもとはこの地域の名主の屋敷の邸内社だったそうです。正徳3年には草加の総鎮守となり、大変賑わったとのこと。 |
この神社の旧鳥居の台座に、前回乙未で行った江戸城で見たのと同じ「不」の刻印を見つけて、メンバー騒然 |
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煎餅焼き体験。「志免屋」さんでできます。3秒に1回ひっくり返し、凸凹が出来てきたら丸いコテで平らにします。 |
ここはおせん公園。平たい石は煎餅、長い石は箸、右下の四角い石は焼き網を表わす「草加煎餅発祥の地」の碑 |
芭蕉は「奥の細道」で、「やっと草加に着いた」と書いています。千住を振り返る芭蕉の像と追う様に手を上げる曾良の像 |
草加は海抜が低く、水害に何度も見舞われました。放水路や田畑を守る為に作られた水路が沢山あります。 |
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綾瀬川は放水路としてのみならず、流通の為の運河でもあります。階段状の河岸が復元されていました。 |
草加宿を過ぎると松並木。「日本の道100選」にも選ばれた美しい遊歩道を綾瀬川を眺めながら歩きました |
「奥の細道」冒頭の「月日は百代の過客にして・・」に因んで「百代橋」と名付けられた歩道橋。左下はこの文章の石碑 |
本日の本来の目的「美人の里草加・・笠森お仙」の講演は松原団地駅前の中央図書館で行われました。講演の模様や展示物は撮影不可です。 |
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乙未の会・佐原散歩 2016.11.13 |
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昨年合格者の集い「乙未の会」のメンバーで佐原に出かけました。佐原の駅はとても風情があります。東京近辺組は高速バス、千葉県組は成田線で。 |
駅から5分ほど歩いた諏訪公園に伊能忠敬の銅像があります。脇に立っているのは杖先方位盤(方位磁石)。磁石部分は杖が傾いても水平を保つ構造です。 |
良いお天気。小野川沿いを歩き、観光案内所へ。さすが江戸好きのお仲間は、半被を着て算盤を持つと、もうすっかり江戸人です。 |
私のガイドは中途半端で間が持たない。でも、みんなと沢山おしゃべりをして、さらに交流が深まりました。小野川と佐原宿の説明板の横で記念撮影。 |
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この山は何か?お仲間が聞きに行ってくれました。参拝客持ち帰り用のお浄めの塩なのだそうです |
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この石は地震を起こすナマズを抑え込んでいる「要石」。 |
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佐原で一番人気のお店「山田うなぎ」でうなぎを食べました。席の他に注文も予約しておいたのですが、入店して鰻が出るまで50分という本格ぶり。お蔭で話が弾みました。 |
伊能忠敬の旧宅と、伊能忠敬記念館へ。記念館では時間が無くなってきて、測量や天文に興味を持つお仲間は次の香取神宮をパスして展示の見学を続行。柔軟性があるでしょ?私達。 |
バスで香取神宮へ。境内を歩いていたら、自衛艦「かとり」の碇が展示してありました。なんとお仲間の一人はもと海自。「かとり」で世界一周をしたとのこと!佐原の下見情報はこちら |
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乙未の会 江戸城登城 2016.9.25 |
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東京駅丸の内北口集合。この辺りは松平丹波守はじめ大名屋敷のあったところ。ガイドは乙未の会を率いる轟さん |
日本工業会館のビルの区画にあったのは、評定所、伝奏屋敷。みんな手元の地図とにらめっこ。 |
皆一級取得者なので「伝奏屋敷とは何か?」なんて説明は不要。入口の向きとか評定所に詰めていた奉行の話題を。 |
そして大手門から登城しました。枡形や高麗門も、みんな知ってる。なぜ右回りの枡形が多いのかわかる? |
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門を入ったところで「どこかでみた顔ばかりだなあ」の声。!なんと高尾善希先生に遭遇。「僕はお金稼ぎのガイドに来たの」と彼独特の言い回しで笑いを誘う。 |
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左は轟さんが持っていた「江戸城の今と昔」 |
皆売店で争って購入 |
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江戸時代に一度だけあった、江戸城御金蔵破り。歌舞伎に詳しいS女史が、これを題材にした歌舞伎を紹介する資料を下さいました。 |
竹橋横のお濠、石垣を覗き込むと「南無阿弥陀仏」と書かれた石が! 1人で歩いた時とはひと味違う 江戸城散歩でした。 |
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乙未の会発足 2016.5.1 |
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鶯谷の老舗豆腐料理屋「笹の雪」で第十回江戸文化歴史検定合格者の初の集まりが開かれました。ここは赤穂浪士のひとり磯貝十郎左衛門が通った店でもあり、お預けになった4家のうち細川家出入りの店でもあります。
何しろ580人もの受験者から新規合格者はたった14人。今回は12人、この後もう1人増えてメンバーは13人です。「乙未」は試験のあった昨年2015年の干支から命名。
先ず自己紹介、そして、年3回は集まって、何か企画をたてて、史跡散歩や観劇をしよう、と決まりました。 |
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