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2018年5月~2019年10月 |
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2019.10.6 |
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日本大通り入口から大さん橋入口に向う通りに面して「消防救急発祥の地」があります。 |
慶應2年の「豚屋火事」をきっかけにイギリス人ブラントンが道幅を広げるなどの市街地の整備を行い、外国人居留地の自主消防組織を作りました。↑は発掘された、当時の地下水槽の遺構。①は当時の陶製、②は初めて日本人が設計したM10頃の煉瓦製の下水管③はやはり発掘されたガスタンクの基礎の煉瓦。④は説明板にあった、地下貯水槽の写真。現存しています。 |
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今でも水を貯めることが出来る貯水槽があり、ガラス越しに覗くことができます。開港記念公園にも、ガラスに覆われた、当時の煉瓦製マンホールと下水道の遺構があります |
ここから開港記念公園に向う道筋に「近代のパン発祥の地」の碑があります。外国人向けの店の一角で、内海兵吉氏がフランス人から西洋のパンの製法を習いパン屋を始めました。 |
S34、カフェ「かをり」のビル(左下)建築で掘り出され、現在開港記念公園に展示されている大砲。幕末の武器商人が保管していたものが関東大震災で埋まったと考えられています。 |
安政元年(1854)日米代表が横浜村の海岸で会見し、和親条約を結びました。開港記念公園に「日米和親条約調印の地」の碑があります。応接所跡は現在の県庁の辺りです。 |
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ペリーに随行してきた画家が描いた「ペリー提督横濱上陸の図」左が応接所、沖合には一列に並ぶ8艘の黒船。 |
左の絵の右端に見える「たまくすの木」。火事や地震の度に蘇り、公園に隣接する開港資料館に3代目が生きています |
日本大通り交差点の情報文化センタービルは旧横浜商工奨励館。新聞博物館があり、情報関連企業が入るビル。昭和の初めに建てられた旧館のロビーには、新聞印刷の巨大な輪転機がおいてありました。左は通りに面して立っている「新聞少年の像」 |
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2019.8.4 |
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ここは秩父皆野町にある「秩父華厳の滝」暑い日には滝壺に入りたくなります。 |
荒川の支流赤平川にあります。上の赤い屋根は「秩父華厳の滝茶屋」 |
茶屋には手打ちうどんと、約30種類ものソフトクリームがあります。↑はお濃茶ソフトクリーム |
更に車で登ること数分、カフェ「天空の楽校」があります。ここの名物は各種ちまき。 |
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元は皆野町立立沢分校。教室や黒板が残っていて、中は教材や昭和のポスターなどが |
南側のテラスでは美しい秩父の山々を見ながらゆっくりお茶を飲んで粽を食べられます |
角煮天麩羅バーガーが美味しそうだったので注文。ドリンクはセットなら¥50引き |
少し下った日野沢集落に江戸時代の村名主の家の前にあった高札場が残っています |
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2019.6.23 |
鎌倉街道が元荒川を渡る地点にあった岩槻は戦国時代岩槻城が築かれる以前から町が形成されていたと考えられます。江戸時代には武家地と町屋が配置され、城下町が作られました。岩槻城は将軍の日光社参のときの宿泊城でもあり、岩槻藩は代々重要な譜代大名が置かれました。そして藩主をつとめた青山家、阿部家などからは多くの老中が輩出されました。 |
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岩槻藩郡奉行側用人など要職を勤めていた児玉南柯が部下の不正の責任をとり辞職して開いたのが私塾「遷喬館」(↑)。後に藩校となりました |
江島生島事件で祖父と父が失脚し、甲府で生まれた南柯は岩槻藩士の養子となり、頭角を現します。↑は浄安寺にある南柯の墓。 |
家康公の六男松平忠輝は粗暴の噂などもあり父から疎まれ秀忠の代で改易されました。その子徳松と生母竹の局の墓も浄安寺にあります。 |
岩槻市内には武家屋敷が並んでいた小路が残され、城下町を彷彿させます。上は児玉南柯が遷喬館を建てた武家地裏小路のお屋敷の板塀 |
字が薄くて読みづらいけど「裏小路」の石柱 |
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「 岩槻に過ぎたるものの二つあり。児島南柯と時の鐘」時の鐘は寛文11年藩主阿部正春が設置。現在のものは享保5年永井直信により改鋳 |
岩槻城のお隣浄源寺には幕末大奥を取り仕切った老女滝山の実家大岡家の墓がぽつんと置かれています。滝山自身の墓は川口だそうです |
上は「日光御成道道中絵図に見る城下町の町並み。町境の木戸で区画された街道沿に商家が並び、堀と岩槻城が描かれています。 |
お城の遺構はあまり残って居ませんが、障子掘が発掘された堀底道を歩き、いくつかの城門を見ることができます。一部が公園となっています |
街を歩くと↑のような看板もありました。 |
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2019.6.9 |
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令和元年6月9日、城郭検定一級と準一級併願で受験しました。一級は過去問ゲットが目的ですが、でも頑張った |
受験会場は神田三崎町の日大法学部校舎。で、途中三崎稲荷にお詣りして商売繁盛もお願いしてきました(?)。 |
ご報告が遅れましたが、2018年 11月18日に二級と準一級を併願で受験して二級に合格し、暮れに合格認定証を頂きました。
準一級は2019年.6月の挑戦で合格しました。 |
そしてこれが準一級の合格認定証です。二級の方が立派? |
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-群馬県長野原町- 2019.5.12 |
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もうすぐ完成の八ッ場ダム。湛水後はダム底に沈む土地を、今なら不動大橋から眺めることができます。 |
眼下を流れる吾妻川。水量は多いとは思えないけれど堰き止められるとこの下は水で一杯になるのですね |
底を走っていた旧吾妻線の線路が下に、新吾妻線の 線路が上に見えます。川原湯温泉駅も、温泉街も右上に移動 |
不動大橋を渡ると吾妻渓谷の絶景「不動の滝」を見ることができます。 |
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-新潟県秋葉区- 2019.5.1 |
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竹内の実家の近くの茂林寺というお寺に国の重要文化財「子育て延命地蔵」があります。この地の庄屋坂井家が建てたお寺です。以下はその縁起。
正保の頃、開祖坂井家の子孫坂井与治兵衛が公務で大阪に行った時のこと。夢に地蔵菩薩が現れ「我はもと東大寺の持仏であったが、寺の住職が金策の為百両で質入れし、今この宿の蔵にいる。請出して故郷に連れ帰れば家運長久にして子を授けよう」。そこでこの仏像を海路新潟に送ったところ、嵐に会って他の船は悉く難破したがこれを乗せた船のみは無事だった。船頭は感激して小須戸まで地蔵を運んできたという。与治兵衛はその後子供も授かり、坂井家は長く栄えた。 |
新潟市秋葉区小須戸地区は昔は信濃川の河岸(=荷揚げ場)があり、多くの人馬が行き交い賑わっていました。土手沿いには洪水などで犠牲になった馬を弔う為の馬頭観音(↑)。大きな馬の顔を乗せた観音さまです。小須戸の商店街の造りをみると、店の正面が道に対して斜めを向き、ギザギザになっています。旅人の方を向いているのです。この町が商業の町として栄えていたことがわかります。 |
このお地蔵さまは伝行基作で、昭和12年に国宝の指定を受けました。 その後昭和25年の文化財保護法により国の重要文化財となっています。毎年5月7日・8日がご開帳ですが、他の日に参拝することも可能なようです。 |
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-会津若松市・太田市・本庄市- |
「栄螺堂」とは二重のらせん階段で一方通行で廻れる「三匝堂」構造(匝は巡るの意)のお堂。H25に会津若松で初めて入ってびっくり。三匝堂は関東以北のものらしい。福島県会津若松市の旧正宗寺、群馬県太田市の曺源院、埼玉県本庄市の成身院のものを三大さざえ堂と言うそうです。いずれも内部に多くの仏像を置き、一周することで日本各地の観音霊場巡りや、西国八十八か所巡りを果たすという札所めぐりを目的にしています。
このような構造物で世界で最も古いのは、ダヴィンチが創ったシャンボール城の二重螺旋階段だそうです。 |
旧正宗寺三匝堂(福島県会津若松市)2013.7.15 |
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二重螺旋階段で昇降同じ通路を通ることなくお堂を巡ることが仏教に結びつき、回廊内部に並べた仏像を拝観して霊場巡りとしているのが日本の螺旋階段の建物(栄螺堂)の特徴です |
旧正宗寺は建物の外観も面白いですが、登る斜面と降りる斜面が完全に隔てられているので いつの間にかお堂の外に出ているのが何とも不思議でした。 |
曺源院(群馬県太田市) 2019.4.18 |
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群馬県太田市の曺源院は外観は捻れは無く、二階建てに見えますが中は三層です。 |
階段や回廊には隔壁が無く、行きと帰りの通路が隣り合っているので不思議感は少ない |
H27~9の大規模修理で壁を覆っていた化粧ボードと塗料の下に墨書が発見されました。各地からの参詣者達が名前や住所、参拝日時、イラスト(左)まで残していました。 |
成身院(埼玉県本庄市)2019.4.29 |
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明和の浅間山噴火の犠牲者を弔う為に建てられた観音堂は明治43年再建されたもの |
やはり三層二階で参拝路は一方通行。秩父、関東、西国霊場の観音様が計100体奉祀されているので「百体観音堂」と呼ばれます。 右は最上階の観音様と格天井。 |
武州国泰作の唐銅造大日如来像と、寛政7年の銘のある鰐口は町の文化財。 |
東京にも「すがも鴨台観音堂」(大正大学の構内)というさざえ堂があります。 |
すがも鴨台観音堂(東京都豊島区)2019.4.21 |
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平成25年に完成した大正大学の観音堂は八角・三匝の階堂。1階には制吒迦童子がお祀りされています |
昇り階段の壁には般若心経の一部が、降り階段の壁には千住博氏の絵。一部ガラス窓ごしに反対側の通路が見えます。 |
最上階にはご本尊の鴨(おう)台観音さま。お堂の外で、御手に結んだ紐(お手綱)に触ることで観音様に繋がります |
螺旋構造は、仏さまの眉間にある白毫の象徴で智慧と慈悲を表し、これが大正大学の理念に通じるのだそうです |
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2019.2.10~12 |
CAVE OKINAWA(ぬちしぬじがま)-うるま市- |
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2月10日那覇空港近くの公園ではもう桜が咲き始めていました。北部では既に満開。沖縄本島では桜前線は南下するのだそうです |
うるま市の鍾乳洞ケーブオキナワ
14Cには今帰仁城の王子、そして戦時中には300人の住民の命を救った「ヌチシヌジガマ(命を凌いだ洞窟)」なのです |
この洞窟のシンボルである、紅白の鍾乳石が向き合っている場所があります。紅の鍾乳石は赤土を含んで色づいた石灰水でできたと思われます。 |
これは「キラキラ岩」。カルサイト(方解石)はスピリチュアルパワーを秘めるパワーストーン。組成は炭酸カルシウムで石言葉は「希望と成功」。キラキラ光っていました |
この洞窟は戦時中の住民避難中に男女が生まれた縁起のよい場所でもあるそうです。 出口で頭上を見上げると横向きのハートが見えました。 |
座喜味城址-読谷村- |
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15C初めに読谷山按司護佐丸が築いた座喜味城。戦時中は旧日本軍の高射砲陣地となり、占領中は米軍のレーダー基地に使われました。 |
上のような石門アーチが沖縄の城の特徴です。S47日本に復帰後、崩れていた石垣や石門は復元修理され、H12には世界遺産に登録されました。 |
左は石門アーチ上部の楔形石。沖縄で最古のアーチ構造の門と思われる。右は石垣の角。本土内の城の石垣にもみられる算木積みが使われています。 |
一の郭はまわりを海に囲まれた高台。ここには礎石建物跡があります。屋根瓦は出土していないので屋根は板葺か茅葺だったと思われます。 |
大きな牛豚の像がある読谷村の沖縄ハム工場。同所には黒糖の製造工場もあり、売店横の食堂ではすっぽん入り沖縄そばも提供しています。 |
中城城址-北中城村- |
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14c頃から中城按司(王)が数世代に渡り築いた中城城。やはり世界遺産です。正門のある西側までカートで登ります。 |
西向きに建てられた正門(櫓門)。せり出した石垣の手前にはハンタ道(公道)に向かう狭間が作られています。 |
雨乞いの御嶽(うたき)。うたきとは祭祀を行う場所。今も訪れる人々が拝んでいます。城址内に8つの拝所があります |
美しい曲線を描く二の郭の石垣。幕末ここを訪れたペリーは技術に驚き、測量させた(ま、スパイ行為だけど)そうです |
最も広い一の郭には正殿跡があります。後には間切番所、明治期には中城村役場がありました。南東方向は海 |
斎場御嶽(せーふぁうたき)-南城市- |
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斎場御嶽(セーファウタキ)とは琉球開闢伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地。御嶽には6つの神域があります |
三庫理(サングーイ)と大庫理(ウフグーイ)、寄満(ユインチ)の三つの神域(イビ)があります。チョウノハナも拝所の名前です。 |
ウローカーは御嶽に入る為のみそぎの場所です。現在も清水が滾々と湧き出ており、シリケンイモリが泳いでいました。 |
↑の三角形の空間の突き当り部分が三庫理(サングーイ)右上の岩の上がチョウノハナで左側には久高島が見えます。 |
海の向こうに見えるのが数々の神事が行われてきた神の島久高島。琉球の祖アマミキヨが降臨して最初に作った島です。 |
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-埼玉県秩父市- 2019.2.3 |
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岩壁から染み出た水が滴り、凍り、解けた水がまた凍って氷柱になります。幅30m高さ10mほど。水をかけて作った氷柱もありますが、これは天然です |
河原(荒川です)に降りると迫力。透明度も高く美しい。 |
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途中、車道に猿が飛び出してきてびっくり。 |
秩父名物「わらじカツ丼」。一足乗ってます |
味噌ポテトを持つ ぽてくまくんとどら焼きも |
武甲山も、石灰切り出し跡の山肌に雪がついていました |
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-埼玉県熊谷市- 2019.1.27
(めぬましょうてんざんかんぎいん)) |
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「熊谷の東照宮」こと瀟洒な造りで知られる聖天山歓喜院。埼玉県の建造物としては初めて国宝に指定されました。 |
一の門である貴惣門は国の重要文化財。横から見ると入母屋破風が三つ付いている珍しい造り。彫刻も素晴らしい |
入場チケットはパンフレットになっており、寺院の説明のほか、本殿の彫刻の解説シリーズも。↑は「西王母」。中国の女仙人です |
木彫技術を駆使した拝殿。建築は吉宗の頃ですが、日光東照宮の修復を手がけた職人も多く関っているそうです。 |
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本殿は4月のご開帳に向けて修復中。今ならではの姿をご覧くださいとホームページにあったので拝観に来ました。 |
着色前で漆の地のままの彫刻を見ることが出来ます。現在鮮やかな緑もこの先落ち着いた色になってくるそうです |
漆は全て国産のものを使い、風鐸は純金です。また、屋根下の金箔も何回も重ねるので費用も時間も莫大だそうです |
本殿下部彫刻の主人公は子供たち。↑は相撲に興じる子供ですが、1人そっぽを向いています。どの絵にも遊び心が |
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ネットやビニールを張った中で作業中の職人さんの姿も目撃。彩色中だったようです。 |
後の井戸もボランティアガイドのおじさんも現役。人名も地名も建物名も立て板に水でした |
二重の宝塔は昭和33年の建築ですが、現在では大工さんが居ないので建てられないそうです |
鎌倉時代の「善光寺式三尊像板碑」 が参道に移築されている。県の指定文化財 |
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-茨城県大子町- 2019.1.13 |
袋田の滝は日本三名瀑のひとつ。高さ120m幅73m、4段に落下するので「四段の滝」とも言いますが、一説に依れば西行が「この滝は四季に来ないと真の風趣は味わえない」と絶賛したからとも言われています。新緑・凉夏・紅葉・氷瀑と姿を変えた美しさを持っています。
昭和54年に長さ276mのトンネルが整備され、平成20年にはエレベーターが設置されて、より高い位置から滝を見ることができるようになりました。 |
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トンネルの途中、第1観瀑台は下段の滝の間近です。 |
第1観瀑台から氷結の久慈川と吊り橋が見える |
右上は第一観瀑台。吊り橋をわたり駐車場方面へ |
吊り橋から見える第一観瀑台と滝と凍った川 |
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最上段の第2観瀑台からの氷瀑。迫力です |
トンネルの途中の一角にあったぼんぼりのライトアップ |
常磐自動車道から筑波山が見えました。 |
道の駅のスタンプと常陸大黒という黒豆の甘納豆 |
地元野菜のタンメン、常陸牛のランチ、名物舟納豆 |
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2019.1.6
-埼玉県立史跡の博物館企画展- |
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埼玉県立史跡の博物館は埼玉県域の中世に関する調査研究と展示を行っています。現在行われている上杉謙信の関東攻めに関する「越山」という展示を観に行きました。
1.上杉謙信と越山
2.戦国時代の戦の舞台城とは
3.謙信の越山と城攻め
4.関東の戦国時代と越山
5.城郭探訪 |
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天文17年にに家督を継いだ謙信は越後統一を果たし、同21年から17回に渡り関東侵攻を行いました |
↑の図(☆)は第2次越山時の謙信の動向と関東の城。黒が松山城、緑は忍城青は金山城です。 |
↑は岩殿山正法寺の僧栄俊が永禄3年以降の謙信越山の様子を記した「松橋流血脈裏書」 |
博物館は武蔵武士畠山重忠の居館菅谷館跡にあります。土塁や空掘りの跡は戦国時代のもの。 |
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☆は池亨著「動乱の戦国史:東国の戦国争乱と織豊権力」より引用。関東には50以上の城があった。 |
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上段:金山城址、松山城跡
下段:杉山城址、忍城土塁 |
深谷城で出土した塗椀と木皿 |
深谷城で出土した茶臼と天目茶碗 |
騎西城で出土した槍先と鏃(やじり) |
騎西城出土の左から鉄・銅・鉛の銃弾 |
武蔵地区の城跡の発掘調査から、戦国時代の生活や交流、戦の実態が見えて来る。攻められて実際に戦闘が行わわれた城からは銃弾が多数発掘される。松山城からは銃弾が3個、金山城からは主に鉛製の銃弾と鉄鏃が多数見つかっている。騎西城は北条武田連合軍が松山城落城の報復として、また越相同盟破棄に伴い謙信により攻略されており、多数の銃弾が出土している。銃弾は径11mmのものが多いが鉄製の19mmのものも出土、一部には命中して変形したものもあった。上のような生活用品も多く出土しており、中には中国伝来の染め付けのものや、当時武士の間で流行した茶の湯に関するもの、また武器鋳造の設備なども発掘されている。 |
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-滋賀県北部- 2018.114 |
高月観音の里資料館・渡岸寺・石堂寺・己高閣・世代閣・赤後寺、どの観音様もとても素敵でした。写真撮影はできませんでしたので、それぞれの施設の説明ページにリンクをはりました。でも、何と言ってもこの地に行って、直に観音様を拝観してほしい。お勧めです。 |
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奈良時代以降仏教文化が盛んで観音像が多く残る「観音の里」湖北。高月観音の里史料館には観音様や地域の風習などが展示されています。 |
この地は槻(欅)の大木があるので高槻といいましたが、月の名所でもあることから「高月」と呼ばれるようになりました。↑は槻十選のうちの1本 |
渡岸寺には最高傑作といわれる国宝の美しい十一面観音。宝冠の上だけでなくお顔の横にも2面お持ちで、それぞれの表情がよく見えます |
姉川の合戦 (1571)では滋賀の寺院は悉く信長の焼討に会いました。住職と村人は仏さまを地中にうめて守りました。↑は「御尊像埋伏之地」碑 |
石道寺 の十一面観音像は間違いなく日本一美人だと思います。口元に紅が残り、井上靖も「美しい村娘をモデルにしたのでは」と書いています。 |
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己高閣・世代閣は鶏足寺はじめ己高(ミダカミ)山にあった多くの寺院の仏像を集めた文化財収蔵庫。右の白い建物が己高閣。己高閣はS38年、世代閣はH1年の開館。 |
己高閣世代閣と同じ敷地内にある旧戸岩寺。8C末には大伽藍が立ち並び、伝教、空海ら高僧も多く訪れた寺。今は無住ですが年に一度僧を招き読経と供養が行われます。 |
赤後寺も石堂寺も無住。地域の方達がボランティアで管理を行っています。赤後寺の観音様は戦乱の中で手首から先を失いましたが、信仰厚い村人達に今も守られています |
赤後寺にある「お枕石」。天正11年、戦火の中を村人が観音様を背負って逃げ、赤川に二尊像を沈め周囲を石と柳枝で覆って守ったと言います。この時枕となった石です。 |
上野不忍池のほとりの゚「びわ湖長浜KANNONHOUSE」。長浜の観音様にお会いできる素敵なアンテナショップでしたが令和2年10月で閉鎖になってしまった・・ |
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-甲賀市・守山市- 2018.11.3 |
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今年は33年に一度の櫟野寺の大開帳。一昨年秋に上野で拝観した仏さま達をお寺でも拝観したくてやってきました |
新装なった宝物殿に重要文化財の仏さまが勢揃い。みうらじゅん氏といとうせいこう氏も10月に来館したそうです |
秘仏十一面観音さまには索が付いており、ひも越しにお手に触れることが出来ます。↑の散華も頂いてきました |
↑ 山門の仁王像 ↓コスモス畑 |
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甲賀の総社油日神社。山頂に大明神が火を噴いて降臨したという油日岳がご神体。本殿等の建物は重要文化財です。 |
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甲賀市は忍者の里。↑の小父さんに「忍者さんですか?」と聞いたら「そうだよ、この辺りの人は全部忍者の末裔だ」 |
守山市の下新川(ニイカワ)神社は715年、湖西から筏で琵琶湖を渡ってきた豊城入彦命を祀った小祠が起源とのこと |
お詣りしていたら自治会長さんに声をかけられ、隣の自治会館で伝統の「すし切り祭」(毎年5月に長い鉄箸と庖丁を使って二人の若者が動作を合わせて鮒ずしを切り分ける祭)のビデオを見せて頂きました。右は拝殿前にある神使のオシドリ |
神社の目の前には「船着き場跡」の碑。ここまで琵琶湖だったんですね。守山市は「蛍の里」なのでマンホールの蓋にも蛍。 |
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東光寺では本堂の阿弥陀様や観音様の参拝は出来ませんでしたが、地蔵堂の、修復された地蔵菩薩(平安時代)を拝観 |
観音寺ではご住職のお話を伺いました。寺名の変遷やその由来、法話。お詣りの時手を合わせる意味も教えていただきました。 |
お庭の六地蔵と江戸時代の信心深い夫婦の供養塔。その前の砂に描かれた渦は六道を表します。人道に生まれたことを感謝しましょう、と。 |
観音寺縁起。源頼朝が平氏に敗れ東国に行く途中この寺に立ち寄り、藤の杖をこの地に挿したところ根付き、現在でも右のように花を咲かせるそうです |
日蓮宗本像寺は1311年建立。身延山詣での途中、開祖日像上人の夢枕に若珍大明神が立ち、守山に留まるようお告げを受けて庵を結んだのが始まり |
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本像寺は江戸後期の奇石収集家木内石亭ゆかりの寺。彼の墓碑といくつかの遺愛石があります。(奇石は非公開。写真はパンフレットから)) |
東門院は比叡山を守る東門としてこの名を賜った由緒正しいお寺。不動明王像始め重要文化財を所有していますが、団体でしか拝観できません |
「守山観音」として親しまれる十一面観音様は本堂外から拝顔。不思議な笑みを湛えています。右は鎌倉時代のものと言われる石造五重塔 |
草津で東海道と中山道が分れて、最初の宿場町が守山宿です。↑は皇女和宮も宿泊した本陣と、天保絵図でも確認できる井戸の跡(井戸は移築) |
宇野宗佑もと首相の生家は守山の大きな酒造家。現在料亭「卯の家」になっており、三和土には守山宿の模型がありました。↑の写真のお寺は東門院 |
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-栃木県宇都宮市・壬生町- 2018.10.7
ふたあらやまじんじゃ・いわさくねさくじんじゃとかめづかこふん |
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二荒山神社は下野国一宮。高台の上に本殿があります。石段は弘化3年に古着屋の組合から寄進されたもの |
文久4年の「宇陽略記」にある「二荒山馬場先繁栄之図」 。この後戊辰戦争で社殿も神社の資料も焼失しました。 |
現在残っている社記によれば1600年前に毛野国が上野国と下野国に別れた時に豊城入命を祀ったとあります。 |
龍が水を吐く手水舎。側面に「天保五巳年 枝源五郎」 と当時江戸で成功した大侠客の親分の名がありました |
↑大正2年まで二荒山神社の菊水祭で活躍していた「桃太郎山車」が一昨年蘇り、城址公園に展示されています |
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磐裂神と根裂神を主祭神とするイワサクネサク神社。元亀元年に創設され、明治2年に安塚神社から社名を改めました |
不思議なパワーストーン。両側のそれぞれの石に乗って真中の重りを持ちあげると、右の石の時の方が軽く感じます。 |
亀(体の悪いところを撫でて治してもらえる)に乗っているのは「夢福神」。手水舎の水は「長寿の水」 だそうです |
神社裏の「亀塚古墳」。前方後円墳であることは分っていますが出土品がなく、建造年代はわからないそうです |
こんもりしているのを見て「古墳だ」と思って立ち寄りました。周囲をぐるっと廻って七福神さま達をお詣りしました |
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2018.9.24 |
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墳丘は無くなっていたがS58年周溝の調査から方墳であることと、下段の石材が残り、複室構造の横穴式石室とわかっています |
発掘場所から50mほど離れた学校横の公園に石室が復元されました。出土した土師器片から7C後半のものと推定されます。 |
石室はほぼ忠実に復元されていますが、周溝は無く墳丘の大きさは約半分になっています。周辺は「鶴ケ丘遺跡」と呼ばれます |
この近くには川越の小畔水鳥の郷公園があり、小畔川のおいせ橋周辺の遊歩道にはコスモスが咲き乱れていました。 |
こんもりと小高い丘は古墳ではなく「お伊勢塚」。伊勢信仰対象の塚で、このてっぺんに登ってお伊勢参りの代わりにしたとのこと |
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-埼玉県秩父市- 2018.9.17 |
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秩父橋立鍾乳洞は石灰石で出来た武甲山の麓にあります。浸み込んだ雨が石灰石を溶かして洞窟が出来ます。↑は石龍山橋立堂。本尊は鎌倉時代の作と言われる馬頭観音 |
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鍾乳洞のでき方や人々の生活の説明 |
ここが鍾乳洞の入口。この先鍾乳洞の入口も洞内も撮影禁止です |
この岩盤の内部が鍾乳洞になっているらしい。とても狭い通路を身をかがめて梯子を登ったり穴をくぐったり。 |
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!洒落たカフェがあります。賞をとった豆を使ったコーヒーあり |
何度もテレビで放映されています。絶品のキミプリンやアイス、パンケーキがあります。私はアイスを挟んだトーストを。 |
西武秩父駅から武甲山(1304m)。明治期からセメントの原料として石灰岩が切り出され、↑のような面白い形に。 |
帰り道、東武鉄道のブルーバード号に遭遇。8000型でした。 |
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2018.8.30
相撲放談~相撲が10倍楽しくなる!とっておき講座~ |
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お相撲好きの私達に魅力的な講座。講師は第34代木村庄之助の伊藤勝治先生。 |
伊藤勝治著「スージョにも相撲初心者にもEnglish Readerにも楽しめる「相撲見物」を頂きました |
他にちゃんこのレシピ9月場所の番付、決まり手の説明、歴代横綱表、それに大入り袋(↓)付き |
この本、中身は綺麗な写真やイラスト、それに英語の説明がいっぱいです。お見せできなくて残念。歴代横綱表も載せたいけどコピー禁止ですね |
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←伊藤勝治著「相撲見物」は英語併記の、バイリンガルで楽しむ日本文化と銘打った大相撲紹介の本 |
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お相撲の歴史、50年にわたって行司さんを務めた行司さんからみた沢山の力士たちのこぼれ話、栃若、柏鵬、北玉時代の懐かしい写真や映像をたっぷり見せて頂き面白い講座でした |
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-奈良県奈良市- 2018.7.16 |
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元興寺の建物には飛鳥、奈良、鎌倉時代の建築部材が残っています。今年創建1300年を記念して屋根裏が特別公開。それら部材の見学ができます |
ヘルメットを被りライトを下げて屋根裏へ。↑の蟇股は1226年+αのものと推定されます。1244年の改築時に伐採された部材と思われます。 |
中央の舟形の部材は「肘木」といい、上面に笹繰(ノミ跡)があることから奈良時代のものと考えられます。 |
「巻斗」とは肘木の上で、桁などを支える部材。この巻斗は白鳳時代616年以降のものであることがわかっています。 |
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蟇股のある上下2本の梁は「虹梁」。孤を描いています。
上虹梁の上の巻斗は奈良時代(677年以降)のもの。 |
土壁にコテの先端を使って彫ったと思われる鶴の絵。昭和大修理の際、絵心のある職人さんの手すさびか。 |
柱補強の大梁の裏側にノミで彫りこんだ飛行機が。零式水上艇で下には富士。戦中~戦後の修理の際の落書き? |
部材の年代は年輪からわかります。この巻斗は582年+6年の年輪が確認できたので、記録から590年の伐採と判明 |
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元興寺の起源は6世紀末飛鳥に建てられた法興寺。後に平城京に移転し元興寺と改称。建築部材や瓦等は飛鳥時代のものも残っています |
平城京では南北500mに及ぶ大伽藍でした。中世以降浄土信仰となりその頃の千体仏や柿経なども残る。1998年には世界遺産に登録されました。 |
屋根裏探検の日、朝食前に奈良公園と氷室神社を散歩しました。微妙に横断歩道を無視して道を渡る鹿たち。自動車は仕方なく停止線で待っていました。誰もいない氷室神社の境内。池には睡蓮が美しく咲いていました。 |
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-奈良県桜井市- 2018.7.15 |
大神神社・桧原神社・相撲神社 |
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奈良駅から大神神社のある桜井市へ向かう途中、沢山の古墳を見ました。遺跡と古墳だらけの奈良です。 |
大神(オオミワ)神社は大和国一宮の神社。↑は巨大な二の鳥居。亀腹の台石(左下)は人の背丈より大きいのです。 |
ここは三輪そうめんの里。参道にあるお店で三輪そうめんと柿の葉寿司のセットを頂きました。 |
拝殿への階段の手前にはご祭神の大物主大神の化身である蛇の手水。手を清めてから注連縄をくぐります。 |
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大幣で祓ってから参拝。ご神体は三輪山なので本殿は無く拝殿の後ろには結界の印の三ツ鳥居(重文)があります |
三ツ鳥居は申し込めば参拝できます。↑は申込所の参集殿にあるなで兎。体の悪いところを直してくれます |
境内の「巳の神杉」 。祠から白い「巳さん」が出入りするそうです。名所図会にもあるので樹齢は恐らく400年余。 |
大神神社の三ツ鳥居の写真はNGですが、摂社である桧原神社の三ツ鳥居は誰でも見られて、撮影もできます。 |
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天照大神は一度桧原に祀られた後各地を巡幸し、伊勢五十鈴川上流に鎮座されたそうです。↑は桧原神社の横の日本最古の「山の辺の道 」 |
能美宿禰と大麻毛早が戦ったと伝わるこの地に相撲神社があります。国技館の奈良県知事杯もこのかたちです |
「大和は国のまほろば たたなずく青垣 山ごもれる大和し美わし」と万葉集に歌われます。青垣とは奈良周囲の丘や山々のこと。 |
ここは巻向日代宮伝承地。近くには巻向古墳群や珠城山古墳群など、未調査のものも含め多くの遺跡があります。 |
安倍文殊院 |
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安倍文殊院は大化元年(645)安倍一族発祥の地に創建された、祈祷の寺。安倍仲麻呂公や陰陽師安倍晴明公出生の寺でもあります。 |
快慶作の国宝文殊菩薩は台座を含めると7mと日本最大。彩色や金箔もよく残り、お顔も、くびれた腰や僅かに反った指などお姿も日本一美しい |
納め札を頂き、浮御堂の周囲を7度廻る七まいり。一巡りごとに「○○しませんように」と祈ってお札を納めます。手前は安倍仲麻呂公望郷の石碑 |
文殊院西古墳は国の特別史跡。7世紀頃の築造。石室は切込はぎ布積みの石壁とアーチ天井が美しく、中で「願掛け不動」にお詣りできます。 |
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文殊院東古墳は室町時代には既に開口していて墳墓の形は不明です。石室や羨道(通路)は奥が狭く、遠近感が強調されているそうです。 |
平安時代の陰陽師安倍晴明公。↑は2004年、1000回忌に再建された晴明堂。中にある「如意宝珠」を撫でると魔除けの加護が受けられます。 |
ここは安倍晴明公が天体観測を行った場所。後世も安倍晴明の子孫土御門家が観測と暦作りを担当した。二つのピークがある山は二上山。 |
江戸時代大坂から奈良を経て伊勢神宮へと続く伊勢街道は重要でした。街道に南向に置かれていた大道標。「右いせ、はせ、左たへま、大坂」 |
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6.10 |
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お城や城跡を回っているうちにちょっと興味を持ったので江戸検のお仲間に教えていただいた「日本城郭検定」を受けてみようかと思い立ちました。試験場は王子の中央工学校というところ。 |
まだ初級です。受験番号は00379.。若い女性が多いのにびっくり。お城はブームなのかな?
同じ部屋に小学生の男子もいました。 |
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3級(初級)は合格率が高いです。
私は91点で全体の12位。トップ10には入れませんでしたけどまあまあです。 |
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-埼玉県毛呂山町- 2018.6.3 |
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子ノ権現と谷を隔てた毛呂山町滝ノ入地区にある桂木観音。紫陽花が咲き誇り、仁王像のある立派な山門や鐘楼もあります。 |
行基が大和の葛城山と似ているので「かつらぎ」と名付けたのが地名の由来。↑は御前立の小さな木像。周囲の鶯の声がすごい |
標高300m。関東平野が一望できます。高層ビルやスカイツリーの向こうの初日の出を拝むことが出来るので元旦は混雑するとか。 |
桂木観音に登る途中にあった「テーマ:少女とリス」の像。タイトルは「もういいかい」。帽子からリスの尻尾がはみ出ているのです。 |
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-埼玉県飯能市- 2018.5.31 |
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奥武蔵の山にある大鱗山雲洞院天龍寺。山門手前の二本杉は子ノ聖が挿した杉の箸が成長したと伝えられる。 |
子ノ年子ノ月子ノ日子ノ刻生まれの子の聖が修行した場所に弟子の恵聖上人が建てたお寺です。聖橋を渡り手水舎へ |
昭和56年落雷で焼失した本堂は信徒によって建て直されました。ご本尊は元三大師、不動明王などを合祀 |
子ノ権現は足腰守護の神仏として信仰を集めています。大きな鉄製の下駄とわらじが奉納されています。 |
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本堂をのぞいたら、1,5mほどの大きなハイヒールがありました! |
小さなわらじに足腰守護の祈願を書いた可愛い絵馬が並んでいました。 |
往時は訪れる人も多く、開山日供養などの行事も賑わったとのこと。駐車場の見晴らし場からは、秋冬の空気が澄んでいる季節にはスカイツリーが見えるそうです。 |
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-埼玉県川島町- 2018.5.20 |
日興証券創立者遠山元一が、幼い頃に遠山家が手放した川島町の生家を再興し、苦労した母美以の住まいとする為に建てた邸。全国からの銘木と選りすぐりの技術により2年7か月の年月を費やし昭和11年に完成。美以の没後は元一の接客に利用され、その後邸宅と蒐集した美術品の保存と公開を目的に、昭和43年、遠山記念館として開館しました。平成30年に国の重要文化財に指定されました。 |
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長屋門(↑)、渡り廊下で繋がる東棟、中棟、西棟から成る伝統的日本建築は室岡惣七の設計。手前には蓮の咲く濠がある。 |
東棟は生家の再興を象徴する茅葺屋根の豪農風建築。亀甲石を三和土に敷いた玄関には式台や控えの間もあり武家風。 |
東棟座敷部分は防寒のため天井板で塞がれていますが、玄関側からは茅葺屋根裏の構造を見ることができます。 |
中棟にある浴室。浴槽周囲はタイル張りだが腰から上の壁は木を使い、窓が大きく明るい。天井は蒸気を逃がす構造です。 |
↑シャワーのハンドルが木の壁についています |
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中棟の庭に面した畳廊下。この板ガラスは歪みの無い厚いもので全てアメリカから取り寄せたもの。空襲の時は外して蔵に入れた。 |
中棟の18畳の大広間は書院造り。賓客の接待に使われた。10畳の次の間には現在でも毎年節句人形が飾られ公開される |
廊下に面した出窓の欄間のモダンな細工。他の部屋のものや間仕切り、襖の上の欄間の彫刻は皆非常に凝っていました。 |
西棟は京風数寄屋造り。↑は茶室の網代の縞模様の天井と欄間。床の間の壁は鉄粉を塗りこんだ「大阪錆」と呼ばれるもの→ |
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茶室には中庭の濡縁からお客様を案内することが出来る。茶室には北山杉、赤松など何種類もの木材を用いている |
西棟は茶室建築の意匠を取り込んだ数寄屋造り。中心は美以の12畳の居室(↑)で、ここは数寄屋風の書院造りです。 |
板廊下の下部分の灯り採りは波型に開き、柔らかな光が廊下に差し込みます。右のシャッター構造の棚の戸は持ち上げて開けます |
網代戸の門をくぐると手入れの行き届いた広い庭に入ります。右は中棟。門の手前右側には美術館があり、英一蝶、速水御舟、橋本雅邦等のコレクションも。 |
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