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2021.11.23-日比谷図書館文化館特別展- |
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千代田区の、江戸から東京へのタイムトリップです。千代田区民は入場無料 |
慶長江戸図。左下の紺色部分は日比谷入江、日比谷は江戸初期は海でした。 |
矢印の先薄い青は江戸時代に埋め立てられたところ |
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紅葉と文化館 |
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明治31年の「新撰東京名所図会」の 「竹平町より外桜田霞が関を望む全図」 |
維新後、橋は次々石造りに。↑は明治42年の「最新東京名所写真帖」二重橋 |
木下栄三氏の橋めぐりの絵図や、三十六見附の不思議絵も展示されています |
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広重の東都三十六景「一石橋」 |
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↑万世橋駅。関東大震災で倒壊後縮小、昭和11年からは鉄道博物館となりました |
昭和7年「大東京百景」の東京駅。現在の駅舎はこれを復刻した建物ですね |
昭和39年の東京オリンピックを前に首都高速道路が建設されました。↑鍛冶橋 |
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-川越市- 2021.11.21 |
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川越水上公園のメタセコイアが色づいていると知り、写真を撮りに来ました。 |
ここはプール、テニスコート、フットサル場などスポーツ施設が沢山あります |
メタセコイアが彩るのはスワンボートのあるボート池です。 釣りは冬のプールで。 |
水鳥も沢山。
カルガモ(左)とヒドリガモ(右) |
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川越市民のいこいの場です。周囲に散歩、ジョギング、サイクリングロードもあります |
広いドッグランがあるので、ワンちゃん連れの人が沢山いるのです |
木陰で将棋を指すおじさま達とそれを眺める見物人 |
駐車場ではフリマ中。手前でひとり遊びに飽きて座っている少女 |
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ー東松山市ー -2021.11.11- |
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東上線高坂駅からバス5分、我が家からは車で20分。〇は北園、〇は東園。他のエリアにも色々な動物がいます。 |
近隣の小学生は必ず一度は遠足で訪れたことがあるはず。広場や「こどもの城」、アスレチックや恐竜コーナーもあります |
地図の中心の⇐部にある園のシンボル「天馬の塔」 。何しろ広い(46ha)ので全部を1日で楽しむのは難しいかも |
私がぜひみたかったマヌル猫。モンゴルの寒く乾いた荒地の岩場に住み、寒さから身を守るため、長い毛を持つふっくら体型です |
カナダヤマアラシはアフリカやユーラシア大陸のヤマアラシと異なり、地上ではなく、樹上で生活するそうです |
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プレーリードッグは北米の草原に住む体長30cmほどのとても可愛い動物です。穴を掘って出入りする姿が見られます |
ミーアキャットはマングースの仲間だそうです。目の周りのアイシャドーのおかげでなんだか色っぽい目つきと腰つきでした |
ご存知小熊猫。愛らしいレッサーパンダもいます。 アライグマの仲間。 |
ハウチューという小動物舎の齧歯類たち。それぞれの名前は「テグー」「パンパステンジクネズミ」「グンディ」「ビスカチャ」 |
プーズーは、チリのチロエ島にしかいない、世界一小さい鹿。体長は80cm、2017年に2頭の赤ちゃんが生まれました |
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ペンギンヒルズはフンボルトペンギンの生息地でもあるチロエ島を再現。プールではペンギンたちが勢いよく泳ぎ回ります |
東園はコアラとカンガルーのエリアです。昼間はいつも寝て居る子が多いのですが、ユーカリをむしゃむしゃ食べているコアラを目撃 |
これはシマオイワワラビー。体長は50cm弱くらいかな。小さくてとても可愛い顔をしていました |
何と言ってもトレンドは「世界一幸せな動物」と呼ばれるクオッカ。オーストラリア以外でみられるのはここだけという人気のワラビー |
口角が上がっているのでいつも笑っているように見えるから幸せというのですが、上手く写真が撮れなかったので看板でカンベン |
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広い園内。汽車(彩ポッポ)に乗れば楽ちん。可愛くて綺麗な乗り物だけど、平日は1時間1本、休日でも30分1本だもんなあ。 |
ワライカワセミの童謡覚えてます?「♪ケララケラケラケケラケラとうるさいぞ」ということは鳴声が笑い?でも顔も笑って見えました |
オオカンガルーの親子。ごろごろ寝ているカンガルーが沢山いる中でママのカンガに甘えるルーが可愛かった。 |
こんな風にすぐ近くでカンガルーに会えます。後ろの二重扉は開閉に気をつけないと狙って飛び出すやつもいるんだとか。 |
乳しぼり体験もできます。↑は今年の1月に生まれた丑年うまれのペコちゃんです。生下時体重49kgと書いてありました。今何kg? |
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ー嵐山町ーー2021.8.15ー
ー埼玉県立史跡の博物館ー |
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嵐山町の菅谷屋敷跡 にある史跡の博物館の企画展示「忍びの者」に行きました。主な展示は関東一円に残る一次資料の古文書が中心なので、羽生城や久留里城の攻防など知らなかったことが沢山あって私は面白かったけど、アニメ世代の子供たちには退屈だったかも。 |
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①姿を現した忍者たちー北斎漫画や江戸時代の戦記物に描かれた忍者、その後の小説や漫画に登場する忍者
②忍びの自画像ー忍者の子孫に伝わる忍術伝書や忍器
③忍びの真実を暴くー古文書から読み解く実際の活動内容
④忍びの足跡ー発掘現場から出土した炭化米や礫、マキビシ |
忍者が最も活躍した戦国時代。情報収集の他、夜、城内に忍び込んで火を放ったり。上杉、北条方などに身分を明らかにせず契約した書面が残っています。(右下は菅谷館の主畠山重忠から私達への書状) |
50×80cmの特大ポスターは無料配布でした。 |
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ー飯能市ー -2021.8.1ー |
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八耳堂は真言宗金軸山金蔵寺の仏堂で聖徳太子をお祀りする太子堂。H.7に内部から銅板経、舎利種子墨書等が見つかり、市の有形文化財に指定されている |
金蔵寺創建は保元年間(1156~1158)です。その奥、鬱蒼とした杉林に囲まれた軍茶利神社。建仁2年(1202)飯能地方の武士大河原四郎が創建したと伝えられます。大河原氏は飯能の殿屋敷(地名)に住み、南側に位置する龍涯山に砦を構え、金蔵寺と軍茶利神社を厚く信仰しました。この周辺だけはものすごく涼しかったです。 |
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ー飯能市ー ー2021.8.1ー |
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飯能市立博物館は能仁寺のすぐ横にあります。以前から気になっていたこの博物館に行ってみました。 |
今年夏~冬まで「渋沢栄一と飯能」の展示が行われています。平成21年の展示「飯能炎上」の際に作られた、中身の濃い図録(これは面白かった)をゲット |
展示は振武軍が中心。あまり目新しい展示はありませんでしたが、振武軍がこの地で資金を集めた時の廻状などがありました |
左はこの頃の砲弾や民家で見つかった銃弾、右は軍旗。飯能戦争で振武軍が駐屯した寺や飯能村等の200軒の民家が焼失したが民間人の人的被害はなかった |
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鶴ヶ島→坂戸 -2021.7.8- |
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一年延期されて開催のオリンピック。鶴ヶ島から坂戸まで聖火リレーがおこなわれました。朝からヘリの轟音 |
露払いのパトカーがまず通り過ぎ、「あと15分ほどでリレー走者が通ります。」とアナウンスがありました。 |
知らなかったけどマミー歯科からすぐの交差点が中継所でした。ここから走る方がバスから降りてきました。 |
コカ・コーラ、日本生命、NTTと協賛企業の車の行列が続き、 |
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扇子やタオル、折り畳みクッション、ペットボトルのお茶など、次々配られました |
知り合いのカメラにポーズを取って待っていた年配の男性に、いかにもアスリートといった若者からのトーチキス!彼は大学の陸上の選手で長距離界のエースらしい。 |
見物していたら思いがけずもらえた戦利品。どれも非売品だからうれしい |
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坂戸市 -2021.3.7- |
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大川平三郎氏は現在の坂戸市の生まれ。叔父であり、後に義父ともなる渋沢栄一の書生となって学び、欧米に留学して製紙を学んだ我国初の製紙技師です。木材による化学パルプの製造に成功し、王子製紙を初め、複数の製紙会社を成功に導き、「製紙王」と呼ばれました。 |
平三郎の祖父平兵衛は神道無念流の道場を坂戸に開いていました。平兵衛は血洗島に出張道場を開き、栄一ら渋沢家や尾高家の人々が剣術を学びました。この記念公園は子孫から寄贈された道場跡です |
平三郎は、樺太にもパルプ工場を建設し、また、坂戸では現農協の前身を作ったり、副業や学業の支援を行ったり、私財を投じて堤防を作るなど故郷の発展に尽くしました。頌徳碑は樺太にありましたが2007年、記念公園に移転されました。 |
令和3(2021)年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」は渋沢栄一の生涯を綴ったもの。第5回に放送された番組ゆかりの紀行では、栄一が学んだ神道無念流が取り上げられ、この記念公園が放映されました。その一週間前にこの公園に行き、ご近所の方からNHKが取材に来たこと、その数日前に草ぼうぼうだった公園の整備が行われたことなどを教えていただきました。 |
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飯能市 -2021.2.11- |
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能仁寺は16c初めに中山氏創建。徳川時代は5石を拝領しましたが、5代目の子直邦が久留里藩黒田家の養子となり、綱吉の小姓となった際に50石に加増され黒田家菩提寺となって隆盛を誇りました。 |
ご朱印は天覧山、十六羅漢、廬舎那仏の3種。↑はご本尊廬舎那仏 |
黒田直邦から六代めの久留里城主黒田直方が文化十年武運長久・諸願円満・子孫永昌を祈願して奉った不動明王が安置されている不動堂。 |
「開運青不動」として庶民の信仰を集めました。 昭和54年修復完成を期に開帳され、現在に至ります。色彩鮮やか。コロナ退散を祈願しました。 |
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能仁寺は幕末の飯能戦争で、彰義隊から離脱した渋沢成一郎らの振武軍が本陣を置いたため、新政府軍により焼き払われました。現在の伽藍はS11再建されたもの。 |
境内にある「振武軍之碑」碑文は渋沢栄一の孫敬三題額のもの |
↑中雀門から本堂への参道はよく整備されています。書院の奥の北庭「池泉鑑賞蓬莱庭園」は日本百名園のひとつ。桃山時代の作庭と推定されます。コロナの為拝観停止中。 |
先代のご住職はちょっと変わった経歴の持主。S39年~47年、報知新聞のスポーツ記者だったそうです。その縁で、王、長嶋も参拝に訪れたことがあるそうです。 |
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鴻巣市・行田市 -2021.1.10/1.21- |
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天正17年に始まった秀吉の北条攻め。翌年には小田原城を包囲、北条方についた忍城の水攻めを命じられた石田三成は城の周囲に堤防を築きました。その一部が残っています |
↑赤い線が石田堤。青☆は鴻巣市に残る石田堤、黒★は三成が利用し、陣をはったとされる丸墓山古墳 |
水攻めは成功せず、小田原城落城まで忍城が落ちることはありませんでした。↑鴻巣市の石田堤史跡公園。映画「のぼうの城」ラストシーンはこの公園で遊ぶ子供たちの姿でした。 |
新幹線の高架下には石田・豊臣の家紋のついた櫓があり、櫓下中央に立つとこの合戦のガイダンスが流れます。周囲を水に囲まれながら落ちない忍城は「浮き城」と呼ばれました |
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鴻巣の史跡公園から車で2,3分の行田市内にも石田堤の一部が残されています。↑は石田堤跡の碑。向こう側は縄文時代の石田遺跡 |
三成宛ての秀吉の手紙。水攻めを滞りなく行うように、浅野真田両氏を遣わす等の内容 |
石田堤沿いの館林街道は家康によって整備され、中山道と日光への例幣使街道を繋ぐ脇往還として利用されました。当時の面影を残す松並木 |
鴻巣市内で見つけた竹林公園。小さいし新しいけど、よく整備されていて綺麗でした。 |
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群馬県下仁田町-2020.11.23- |
令和2年11月21日の新聞に下仁田の奇岩「じい岩とばあ岩」が掲載されているのを見て興味を持ち、行ってみることにしました。中央構造線がここを通っていることも、クリッペという、一つの地層の上に別の地層が滑ってきて乗っかるという山の出来方があることも、この辺りが2000万年前には海で、900万年前にはカルデラ盆地(本宿陥没)で、その後も噴火を繰り返していたことも、鉄鉱石が採れる鉱山だったことも、あのごつごつの妙義山の成り立ちも、全部初耳で面白かったです。勿論下仁田葱と下仁田蒟蒻もゲット。 |
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まずは「道の駅しもにた」へ。下仁田といえば蒟蒻と葱。「ねぎ坊」と「にゃくっち」の看板は何故かさかさま。 |
太くて立派な下仁田ネギがたくさん。他にも新鮮な野菜やご当地のお菓子、神津牧場の乳製品もあります |
下仁田町自然史館はもと小学校の校舎。校庭の説明板を読むだけでもここが面白い地層の宝庫とわかります |
左は玄関の桂化木(下仁田の化石)。右は下仁田産の鉄鉱石、石灰岩、泥岩、溶岩。重さを計ってみます。 |
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まずDVDで下仁田の地層について学びました。下仁田は中央構造線の通り道。南と北で全く地層が異なります |
南側は青岩の上に別の地層(オレンジの部分)が滑ってきてできた「クリッペ」の山。根無し山とも呼ばれます |
自然史館傍の鏑川の河原で青い岩(右下)の上に全く違う構造の地層が乗っかっているのが見られます。 |
900万年前に出来たカルデラ盆地に700万年前の噴火で流れ込んだ溶岩が船のような形になった荒船山。 |
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砂岩泥岩互層。砂岩の粗い粒は沈み、細粒の泥岩は浮き上がって岩ができるから。これを「級化」といいます。 |
ところがこの場所では泥岩が下で砂岩が上になっています。大きな力がかかって地層が逆転しているのです |
妙義山は安山岩と凝灰岩の礫で出来ており、浸食でゴツゴツに。凹部分(赤線)は輝石安山岩の露出部です |
風雨に耐えた火山の噴出物が作り出した「じい(青)岩とばあ(赤)岩」。このお店からは両方の岩が見えます |
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茨城県牛久市 -2020..11.12- |
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牛久の阿弥陀様は世界最大の青銅製仏像。高さは120m、総重量は4000t |
山門をくぐって参道を歩くと、どの位置にいても阿弥陀様の眼差しを感じます |
山門を5mほど過ぎて振り返ると阿弥陀三尊像を拝観することができます。 |
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お花畑や公園墓地、仲見世のある浄土庭園。駐車場も入れると敷地は約37万㎡ |
本願荘厳の庭は伝統的な浄土式庭園。売っていた鯉の餌は鴨が横取り(笑) |
左は2m以上もある大香炉
右は「横超の橋」。「南無阿弥陀仏」の6歩で渡ります。 |
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大仏の胎内が拝観できます。お寺は東本願寺。浄土真宗の教えを学びます。 |
実物大の右足親指先端の展示がありました。私は爪の先にも届きません。 |
←地上85mにある窓から東西南北を見渡せます。スリットなので高所恐怖症OK |
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埼玉県所沢市-2020.10.15- |
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鳩峰八幡神社は延喜21年(921)京都岩清水八幡宮から分祀され創建されました。 |
「史跡・新田義貞兜掛松」の石碑と兜稲荷社。新田義貞が上野国で挙兵し武蔵に進軍した時、この社の松に兜をかけて戦勝を祈願したので。 |
八幡神社から少し下がった所にある摂社の久米水天宮。埼玉では珍しい水天宮は、安産祈願やお宮参り、七五三などで人気。この時期、宮司さんもマスク姿でご祈祷です。 |
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埼玉県坂戸市 -2020.10.11- |
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坂戸にある彼岸院清水山大栄寺は天文16年(1547)開山の真言宗のお寺です。「坂戸には何もない!」という市のパンフレットで見つけてやってきました |
お参りしていたら美人の奥様が参拝記念のしおりを下さいました。 |
豊富な湧水が清水山(セイスイザン)の名の由来です。今は湧水池跡のみ。 |
七福神が揃っていることで知られる大栄寺ですが、その他にも境内には色々な仏様やお釈迦様。左から握手大師、 誕生仏、菩提樹の下の釈迦苦行像。 |
日本で唯一菊御紋が許された小田部鋳物の梵鐘には天女像が刻まれています。 |
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境内には七福神が揃っているので、お正月はこちらにお参りすれば七福神巡りができちゃいます。
左から大黒天・恵比寿・福禄寿・寿老人・毘沙門天・弁財天・布袋 |
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埼玉県新座市 -2020.10.4- |
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↑は平林寺惣門。平林寺は永和元年現在の岩槻に創建されました。開山は建長寺の善玖禅師、開基は岩槻城主太田春桂 |
後に家康公の助力を得て天正20年鉄山禅師を迎え、中興の祖と言われるのが大河内久綱。
↑は岩槻から移築された山門 |
久綱の孫川越城主信綱は大河内松平家を興し、平林寺は岩槻からここに移転、大河内松平家の菩提寺となりました |
江戸幕政の確立に寄与し「知恵伊豆」と呼ばれた信綱が開削した野火止用水はこの地を潤しました。一部は寺内の平林寺堀となっています |
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広大な武蔵野の林に囲まれた禅刹平林寺。杉と座禅燈籠が並ぶ参道の先に久綱、信綱ら大河内松平家の大廟所があります。 |
松平信綱の墓。この右には奥方の墓が並んでいます。背後には傍系の大滝家、右京太夫家の墓石も連なっています。 |
徳川4代家綱公の時に起こった島原の乱でも信綱は活躍しました。↑は200年遠忌に建立された、当時の士卒や庶民らを弔う供養塔 |
信綱に命じられて野火止用水の開削に携わった、重臣安松金右ヱ門の墓(左)と小畠助左衛門の墓(右)川越の発展に大いに貢献しました |
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関ケ原の戦い~大坂夏の陣で西軍について戦い、捕らえられて岩槻藩にお預けとなり、自害した増田長盛の墓もここにあります |
夏目漱石の名作「草枕」に登場する、主人公が思いを寄せる「那美」。そのモデルとなった前田卓(つな)の墓もここにあります |
戦後、電力民営化を実現させた「電力の鬼」こと松永安左衛門は耳庵と称した茶人。平林寺向いの別邸「睡足軒」で茶会を楽しみました |
境内の林の中に一枝だけ紅葉しているモミジを発見。よく見ると枯れた枝から伸びています枯れた枝には親樹は栄養を送らないのですね |
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埼玉県坂戸市 -2020.10.1- |
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ステゴビルはユリ科の多年草。埼玉県で自生しているのは秩父市とここの2か所だけ。5ミリほどの小さな花です。 |
食用にもならない小さな蒜(ヒル)なので「捨小蒜」。命名は牧野富太郎博士。学名はAllium inutile Makino |
明治39年に近くの小学校の校長先生が、ここ金山神社の境内に自生しているのを発見しました。 |
昭和6年に埼玉県の天然記念物に指定されました。毎年地元の方々が夏にこの柵の中の草刈りを行い秋の開花に備えます |
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埼玉県狭山市-2020.9.22- |
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狭山市にある「七曲井」。竪堀り技術が発達する前、武蔵野台地ではこのように漏斗状に掘り下げて水を確保しました。平安時代に掘られたものと推定されています。曲がった道を降りて水を汲むので七曲りの井戸です。 |
↑は水神様。江戸中期までは改修を繰り返していましたが、宝暦9年(1759)の改修を最後に記録が途絶え、埋もれていたのを昭和45年に発掘復元されました。 |
すぐ横に川があるのに井戸は必要なのでしょうか?この川は「不老川」、冬には水が枯れ、正月には姿を消すので「年取らず川」です。だから井戸が必要なのです |
川端にあるのは常泉寺観音堂。大干ばつの時観世音菩薩に祈って七曲井を浚ったところ清水が湧き出したという故事があり、井戸の守護として今も崇敬されています。 |
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群馬県中之条町-2020.9.17- |
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四万川ダムのある奥四万湖は美しいコバルトブルーの水が印象的。周囲を時計回りに一方通行の道で走ることができます。 |
周囲の道路には何ヵ所か展望台があります。ここは左に石南花の滝、奥にダムの壁が見えるスポット。生憎の曇り空は残念 |
JRのCMで吉永小百合さんがカヌーに乗って人気が出ました。酸性の水の為、生物が住めないのでこんな美しい色をしています |
台風シーズン前なので放流して水量を少なくしています。矢印まで水のある春先は湖の色がさらに美しい青になるそうです |
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四万川の下流に「甌穴(おうけつ)」を見られるスポットがあります。↑は橋の上からの渓流 |
上流から流れてきた石が急流で回転し、川床に正円形の凹みを穿ち、できたのが甌穴です |
大小8つほどの甌穴群があります。数万年かけて甌穴ができ、それらを繋いで滝が出来ます |
数キロ下った所にある岸壁に食い込んだような「岩井洞観世音御堂」。お賽銭は投げ上げました |
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前橋市-2020.9.10- |
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前橋市大室古墳はJRのCMで有名になりました。赤い印は吉永小百合さんが登場した撮影場所 |
6世紀後半のものです。古墳群最大(長さ111m)の中二子古墳は二重の堀に囲まれています |
南側の土塁の埴輪の行列。この内側を東から西へ、小百合さんが歩くシーンが放映されました |
古墳の全体模型。赤は前二子古墳、黄色が中二子古墳、緑が後二子古墳、青は小二子古墳 |
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後二子古墳には9×2,7mの横穴式石室があり中をのぞくとライトが点きます。 |
後二子古墳からは親子サルとイヌのついた円筒埴輪が出土しているそうです。 |
すぐ脇の小二子古墳は墳丘長38m。後二子古墳の埋葬者の近親ではないかと言われています |
内堀4号墳。石で固められた径27mほどの円墳で 入れないけど横穴式の石室があります |
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前二子古墳はすっかり整備されていて、前方後円がよくわかる。 |
反対側に回ると石室の入り口があります。 |
小百合さんの素敵な立ち姿はここで撮影されたものです |
4号墳の近くに市指定重文の関根家住宅が移築されています |
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養蚕農家だから2階はおそらく蚕棚でいっぱいだったはず。 |
庭の可愛い埴輪群。土蔵を改装した「はにわ館」があり、3D映像で大室古墳群と出土埴輪について学ぶことができます。 |
なぜか猫が多い大室公園 |
高床式の穀物倉庫や竪穴式住居も復元されています |
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秩父市 -2020.8.21- |
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「こちら浦山ダム」の標識の方へ |
ダム内部は一般公開されているそうです。そのうち行ってみたい |
願い事の叶うモニュメントがありますがコロナのため触るなと注意書が |
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三峰神社の帰り、渓谷の向こうにダムが見えました |
浦山ダムのあるさくら湖へは欄干に桜の飾りのある「さくら橋」を渡って行きます。 |
貯水量は3万3千㌧ほど。リアルタイムの運用状況はこちら |
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小鹿野町 -2020.8.19- |
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尾之内渓谷は秩父の小鹿野町にあります。鬱蒼とした林を抜けていくと |
遊歩道の入り口に吊り橋があります。そんなに長くないし、しっかりしているので怖くないけど |
真ん中が丸太なので、足元を見ると渓流が見えます。高所恐怖症の人は苦手かも |
吊り橋の先も渓流を見ながら歩きます。滝もいくつかあり、やはり山の中は涼しい |
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実はここは冬混雑します。秩父路三大氷柱の一つなのです |
三十槌の氷柱、芦ヶ久保氷柱、そして尾之内渓谷の氷柱です |
吊り橋の周囲に氷柱が作られこんな風にライトアップされます。 |
秩父には発電所が沢山あります尾之内の手前の大きな変電設備 |
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-2020.7.5- |
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〇の辺りにお不動様がいらっしゃいます |
S48島崎左官店制作となっています。目玉ぎょろりだけどどこか愛嬌のあるお不動さまです。 |
お不動様の足もとの橋からのぞき込むと滝に流れ込む水がすこーし見えます。 |
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華厳の滝茶屋(左) にはなんと20数種類のジェラートがあるんです。↑は新発売ほうじ茶ジェラートです。じつはこれがお目当て。お茶屋さんは土日のみ開店しています。(コロナ中は窓口販売のみ)) |
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下流の荒川は雨で濁っていましたがここ赤平川は岩をあらう清流です。 |
↑が華厳の滝茶屋。鮮やかなピンクの紫陽花や、可愛いネムの花と新緑を眺めながらジェラートを楽しみました |
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秩父札所四番
2020.6.18 |
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高谷山金昌寺は秩父四番札所。山門には大きなわらじがかかっています。巡礼の脚のため? |
金昌寺は1300体以上の石仏のある「石仏の寺」として知られています。山門の上にも石仏が並びます |
寛永元年当時の住職が7年かけて千体仏安置を成就。その後も信徒の寄進が続いて石仏が増えました |
本堂向かって右に安置されているのは、赤子に乳を与える珍しい「子育て観音」さま。 |
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一時は2700体を越える仏様がありましたが、明治の廃仏毀釈で壊されたそうです。今も首のない石仏が。 |
頭に盃を乗せ、片手に徳利をもったおどけた様子の仏さまもありました。 |
金昌寺は盆地と山地の境界にあり、奥の院の岩山の崖は下部に8500~6500万年前の三波川帯の蛇紋岩(青い矢印の方向の層)、上部に1500万年前の礫岩層が重なり「不整合」(白い矢印の先が境界線)となっています。 |
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秩父札所第一番(しまぶじ)2020.3.26 |
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四万部寺の山門。寺の縁起によれば、寛弘4(1007)播州の性空上人の命により弟子幻通がこの地に塚をたて秩父第一番の霊場としたとのこと |
その際、性空上人がこの地のために四万部読誦した供養を行ったので四万部寺と称した。ご本尊は行基真作の聖観世音菩薩です |
「江戸名所図会」に日暮里養福寺のご本尊は四万部寺の観音様(↑)の摸刻であると記載があります。右は御前立 |
本堂は唐様建築。肘木の曲線゙が美しく、朱が華やかです。天井絵は17世紀の画家狩野常燿の龍。写真はパンフから。 |
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2020.1.13 |
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鬼鎮(きぢん)神社は畠山重忠公の屋敷(菅谷館)の鬼門を守る神社。「福は内、鬼は内、悪魔外」という掛け声で豆を撒く節分で有名です。 |
扁額には何だか可愛らしい鬼の絵(右写真)。そして本殿のお賽銭箱の横に、大小様ざまの「金棒」が奉納されています。それって力だめし? |
「鬼に優しい神社」と紹介されていましたが、人にも優しい。賽銭箱の上に「ご自由にお持ちください」と、五角形の「合格鉛筆が置いてありました |
「鬼に金棒」お守り、頂いた白い「合格鉛筆」、鬼の絵が可愛いおみくじ。
「大吉」でしたぁ! |
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2020.1.13 |
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この上に稲荷社があったので稲荷塚古墳と呼ばれます。 東西20m南北16m。現状では円墳ですが、崩れて元の形を失っていると考えられます。 |
古くから開口しており、副葬品等は全て失われています。東側床面から中世の人骨が発見されており、早い時期に破壊、盗掘されたようです。 |
平成元年に発掘調査を行い土砂の除去と羨道部の形状を確認し、復元整備工事が行われました。玄室は高さ2,5m、奥行3m、最大幅2.5m |
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ー嵐山史跡の博物館ー 2020.1.13 |
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1軍を組織する
2城の備えと兵糧
3軍資金
の3つの視点からの分析が行われていました。 |
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出陣に際して指示される事のあった、金箔を押した馬鐙 |
戦の際に着用の上で参陣が命じられた煌びやかな甲冑 |
八王子城跡で出土した大砲の弾とその鋳型 |
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武士たちは自前で刀等の武器を調達して参陣していた |
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騎西城武家屋敷で見つかった戦国時代の金貨 |
武田氏が開発した黒川金山で使用されていた鉱石粉砕用の回転臼 |
真利谷城跡で出土した戦時の食事がわかる炭化米の塊 |
金箔を用いた甲冑や馬鐙を着けて参戦するよう指示した文書が展示されていました。また、戦果を報告する文書では、敵方の死者の人数などに矛盾が見られ、必ずしも多数の首級をあげてはいないこと、甲冑も回収して修理したことが覗える文書もありました。これは大きな戦いの後でも、生産活動にあまり落ち込みがなかったことからも推察できます。兵糧は雑兵が持参、近在農民から借りる、金銭で商人から買い上げる、など様々な方法をとっていたこと、資金調達は主に税収で、農民は米や労役で支払うことが多かったが、商人からの貨幣徴収も重要であったため、城下の商い促進に努めていたこと、また、武田氏館跡からの出土品などから、金鉱石から金を採取する方法も詳細に説明されていました。 |
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-2019.10.20ー
国立博物館平成館(前期:10/14~11/4・後期11/6~11/26) |
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なんといっても一番見たかった螺鈿紫檀五弦琵琶。異国風のデザインと華やかな細工。精巧なレプリカは撮影自由でした。 |
側面も背面も美しい唐花模様。本物はさらに美しく衝撃的 |
撮影可能エリアには正倉院の校倉造りの模型もありました。錠前はその形から「海老錠」と呼ばれます |
本物は本当に美しかった五弦琵琶。感激したのでミュージアムショップでクリアファイルとマグネットを購入しました。 図録も買って余韻を楽しみます。 |
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上は「海磯鏡」。中国の山を囲み、全体に波と人物(漁師?)の筋彫りが。そして下は着色した象牙の可愛い碁石です。 |
伎楽面「酔胡王」。胡人の特徴である高い(長い)鼻を持った王の面。酒に酔い舞い踊る胡人を演じるのでしょう |
後期展示の「平螺鈿背八角鏡」 後期も行く予定です |
上は後期展示の「紫檀木画槽琵琶」。8世紀頃のもの。下は通期展示の黄熟香=蘭奢待(東・大・寺という字が隠れている)」という香木。 |
聖武天皇愛用の水差し「漆胡瓶」も後期の展示です。思ったより混雑していない午後の拝観をおすすめします。 |
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